尾辻克彦『吾輩は猫の友だちである』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはピ=シェン・チェン(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十二番 op.111 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。■ドビュッシーの「遊戯」で、指揮はベルナルト・ハイティンクロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NMLCD)。


カルコスの駐車場に車を置いておいて、一時間弱散歩。


モズ。


玉ねぎ。

ムクドリ

御井神社。


三井(みい)街道というらしい。

国道21号。


今年はここの桜は撮るのを忘れていたな。
もう暑くなってきていて、散歩によい季節もおしまい。

カルコスではいつものちくま学芸文庫の新刊を買う。店内には結構人がいたな。

夜、尾辻克彦『吾輩は猫の友だちである』読了。何となくしんみりしながら読んだ。黒猫のいる家族風景とでもいうべき小説である。前にも書いたけれど、八〇年代の日常を感じさせて懐かしい。確かに、八〇年代の前半はこんな幸福な時代だった。そして、思えばいまよりはずっと素朴だったようである。なにしろネットもゲーム機も、もちろんスマホもなかったのだ。それにしても、何て下らない感想か、たんなるおっさんの懐古趣味になっている。とにかく、あんな時代はもう帰って来ないのだなということはわかる。いまや、世界のすべてが計量可能になってきているのだ。計量と管理の時代。

そういえば、本書に「土地本位制」(p.284)の話が出てくるが、それを思うとこの幸福な家族の行く末が心配になってくる。そう、「土地本位制」はバブル経済をもたらしたのだ。この物語の、何年か先の話である。

さて、ふと思い出したが、最近のふつうの子供たちがテレビカメラを向けられたとき、十中八九じつに立派なことをさらりとふつうに言うので、わたしはいつも驚いてしまう。こんな子供のうちから、自分に期待されている発言を知り抜いているのだ。それにしても、あまりにも公式的見解に長けているのではないか。時代は変わるなあ。

いまの子供は、家族サービスもしっかりとする。さり気なく、きちんと大人と遊んであげるのだ。


文庫本の西田幾多郎アンソロジーを読み始める。西田は是非読み返したかったので、新刊はちょうど渡りに船だった。