小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』 / ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「イエス、わが喜び」 BWV227 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はカザルス四重奏団(NML)。これがよい演奏なのかよくわからないが、多少テンポの速めのそれではあろう。余計なこねくり回しの感じられないもので、この団体によるベートーヴェンは NML で他にも聴けるようであるから、聴くのが楽しみである。さて、どうでもいいことを少し書こう。また篠田一士さんで申し訳ないが、篠田さんは「ベートーヴェン・アレルギー症」なる現象について書いておられた。ベートーヴェンと名の付くものは一切聴きたくなくなる「病」のことで、まあよくあるものであるし、自分も覚えがある。ベートーヴェンのウンザリさせられる一面をあらわしたものでもあろう。なのであるが、わたしはいまや、ベートーヴェンの音楽にいちばん謎めいたものを感じるのである。感情というものがコスミックなものと深い繋がりがあるとでもいうのか、ベートーヴェンを聴いているとそうとでもいいたくなる「謎」を感じるのだ。まあわたしの音楽の聴き方の浅さと見做してもらってもかまわない。わたしのその感覚は、ベートーヴェンが田舎者であったことと関係があるのではないかとわたしは疑っている。武満徹は東京に住んでいながら深く自然を愛したが、ベートーヴェンもまたこよなく自然を愛する人であったことはよく知られている。たぶんベートーヴェンの心の中には、故郷の田舎町ボンを流れていたライン河が、一生住み着いていたのではないかとわたしは勝手に思っている。それはともかく、わたしはバッハ、モーツァルトベートーヴェンあたりの限界点までいければ、それ以上音楽に望むことはない気がする。まあ、その程度の人間だ、わたしは。

Beethoven Revelations

Beethoven Revelations

 
ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲 op.57 で、ピアノはエリザベート・レオンスカヤ、アルテミス四重奏団(NMLCD)。あらためてこの曲の終楽章は不思議な音楽だと思う。第一楽章から第四楽章はまあふつうにショスタコーヴィチらしい、シリアスな音楽だといってよいが、終楽章は単純な音楽ではない。わたしは「コノ曲はナニヲイミシテイルノカ」的な聴き方はあまりしないのだが、さすがにショスタコーヴィチだからね。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「カリヨン、レチタティーフ、マスク」、「三つのテントス」で、ギターはマルコ・カペッリ(NMLCD)。ヘンツェはこんなにシンプルなギター曲も書いているのか。魅力的な小品たち。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第二集で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NMLCD)。ヤナーチェクがきらいな人っているのかな。どうしたって好きになりそうな気がするのだが。この人も遠くまで続いている人だ。


珈琲工房ひぐち北一色店。歩こうかと思ったのだが、空が暗くなってきたので車で。そうして正解で、明るいながら強い雨になった。武満徹の評伝の続き。まるで我がことのように共感できる。武満は、七十年代の終わりくらいから世界の感受性の画一化に危機感を抱くようになるみたいだ。また、西洋で成功した武満に対する、一方での武満に対する偏見。現代音楽に対する偏見でもあり、人種的な偏見もないとはいえない。それにしても、西洋の前衛があれほどまでに東洋(あるいは日本)を強く意識せざるを得なかった時代があったのだ。そして、こと現代音楽に限れば、その時代の日本はとてもレヴェルが高かったのだと思う。自分は多少の疑問も感じるが、吉田秀和さんのような非常に優れた批評家も存在した。現代音楽に対する非専門家の意識も、かなり高かったように思う。日本の戦後のどこかに、たくさんの可能性を孕んだ、そして高い成果も出した、文化の一種の黄金時代があったようだ。無知な自分はよく知らないが、そんな風に思われ出したところである。

帰りに危うく車を傷つけるところだった。あぶないあぶない。若い女性の運転には気をつけないと。


図書館から借りてきた、小野光子武満徹 ある作曲家の肖像』読了。とうとう読み終えた。何とか読み終えたといってもよい。ついに武満が65歳で死んでしまって、呆然としている。これはよい本だった。晩年の武満の、世界に対する危惧を書いてもよいが、というか書きたくなるが、ここは武満らしく希望を尊重しよう。武満は九十年代の初めに人類は(悪い意味で)その最終段階にきていると語ったが、そして哲学は終ったと書いたが(死後発見)、最後まで希望を捨てることはなかった。我々はそれよりさらに希望の失われた世界に住んでいるが、それでも希望は失ってはならないものなのだろう。たとえそれがむなしくとも。

武満徹 ある作曲家の肖像

武満徹 ある作曲家の肖像

僕は筆者の年齢を知らないが、ポジティブなパワーがある。よくもここまで書き上げられたものだ。充実した読書体験だった。あとは、もう少し武満の音楽を、さらに他の現代音楽も、ぼちぼち聴いていきたい。わたしは武満の CD は多少はもっているし、多少は聴いてきたが、まったく不充分な聴き方であったと思う。わたしごときに何がわかるという気持ちも強いが、いまならもう少しマシに聴ける気がするので。

何か絶望的すぎて自分で辟易するな。あんまりクラいのはあかん。とりあえず同時代のことは括弧に入れておこう。

図書館から借りてきた、ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』読了。じつにひさしぶりに読んだ一般向け数学本。もう最近は自分が理系だということを忘れていたくらいだが、自分であんまりクラいことを書いているのがイヤになって読んでみた。いわゆる「双子素数予想」の証明についての一般書で、これはいまだに証明されていない数論の難問なのであるが、これがもうすぐ証明されるかも知れないというドキュメンタリーみたいな話になっている。おもしろいのは、「双子素数予想」の研究は近年急速に進んだのだが、それが数学ではじつにめずらしいことに、「共同研究」でなされたというのである。しかも、インターネットのウェブサイト上で! これは「Polymath」というプロジェクトで、数学研究の仕方に新しい方法をもたらした、画期的なものなのだ。もちろん数学研究は個人性が強いもので、「Polymath」のような手法が数学のすべてに適しているわけではない、というか適している問題は極く限られているのだが、多くの数学者たちがこれに参加して、とっても愉快だったというのだ。なにせ、そこで発表されたものがアイデアだけとか、時にはそれが誤りであったりしても、それは進歩に役立つことであり、歓迎されたということで、いや、興味深い話である。本書を読む過程で、英語圏には優秀な数学者の数学ブログが少なくないなど、興味深い事実も知った。日本語では素人の数学・物理学サイト、ブログ等は結構あるが、優秀な数学者が日本語で数学のいまを語ってくれるようなものは、わたしは知らない。また、英語圏には本書のような一般向けの理系本がたくさんあるが、日本語では優秀なサイエンス・ライターというとかつて竹内薫さんが頑張っていたくらいで、あとは翻訳本ということになる。なかなかむずかしいのですな、この問題は。まあそれはいい、本書は大学で理系の学問を学んだ方なら、ふつうに読めると思います。結構楽しみました。

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.