澁澤龍彦『貝殻と頭蓋骨』

晴。


シューベルト即興曲集 op.90 D899 で、ピアノはマリヤ・グリンベルク。すばらしい演奏。第一級のものであることは疑いない。あまり聴いたことのないピアニストであるが、Wikipedia の記すとおり、20世紀屈指のピアニストのひとりであるだろう。まったくロシアというのはびっくり箱で、あまり知られていない一流ピアニストがゴロゴロいる。リヒテルのような巨人も、突然出現したわけでないことがよくわかる。


バッハのトッカータ ハ短調 BWV911 で、ピアノは Katerina Kolpakova。これは見事なバッハだ! ロシアの若手ピアニストという感じだが、何とも将来が楽しみな人ではないか。既にこれほどの射程をもっているとはすばらしい。現在一流のピアニストでも、ここまで弾けないのはいくらでもいるよ。


シューマンの「アベッグ変奏曲」op.1 で、ピアノは Katerina Kolpakova。いや、すばらしいね。もっと学ぶべきことはたくさんあるけれど、うまくいったらすごいピアニストになるかも知れない。とにかくこの射程の長さ、既にこれをもっているのは才能だ。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十八番 K.576 で、ピアノは Katerina Kolpakova。いやー、えりにえってこの曲を選びますか。一流のピアニストでも、これを完全に弾き切るのはむずかしいんだよ。僕がピアニストだったら、絶対に人前では演奏しないだろうな。さすがにこれはまだまだ。でも、いい線いってるけれどね。


ショスタコーヴィチ交響曲第二番 op.14「十月革命に捧げる」で、指揮はキリル・コンドラシン。何だこりゃ、趣味の悪い曲だな。後期マーラーからの影響みたいなものも感じるのだけれど、自分には何か変に聴こえる。Wikipedia には「当時の前衛的手法」とあるけれど、それほど革新的とも思われないし。ブーレーズショスタコーヴィチを一刀両断に切り捨てているけれど、こういう曲ならブーレーズのいうところもわかる。響きが野暮ったい。


三善晃のヴァイオリン協奏曲(1965)で、ヴァイオリンは数住岸子、指揮は外山雄三、NHK交響楽団。自分は明らかに日本人作曲家たちに学ぶところがある。日本人作曲家は大したことないとか、つまらないとかは、口が裂けてもいえない。いや、自分が日本人ゆえか、絶対におもしろいのだ。皆んな意外と、日本人作曲家のおもしろさがわからないのではないか。気のせい?

Ruby 2.5 リリース。世界的に Ruby の人気が落ちてきて、もう「Ruby は死んだ」とかも言われているけれど(いや、これまで何回言われたか笑)、Ruby コミュニティの活発さは何なのか。コミッターさんたちがガンガン仕事をしている。おそらく Rails によって支えられてきたような「人気」が落ちてきているのは事実だし、科学技術計算では Python に完敗しているし、またいまは静的型付けで「安全な」言語が流行っているけれど、言語としての Ruby そのものの生命力がなくなったとはまったく思えないな。ツイッターとか見ていると、「Ruby 大好き最高」っていうプログラマは世界中にじつにたくさんいるみたい。

このところようやく Lisp がおもしろくなってきたのだけれど、Lisp していると Ruby がわかってくるところがあるみたい。Ruby は色んなところから最高においしくパクっている! いい言語って、パクリ合いなんだよね。Ruby からも新しい言語にいっぱいパクられているし。いや、楽しいな。
おじいさんになって、「いまは忘れられたかつての人気言語 Ruby」使いだったりするのかな。でも、まつもとさんの仰るとおり、プログラミング言語の寿命って長いのだよね。いまだに FORTRANLisp もふつうに使おうと思えば使えるし、C言語はたぶん永遠になくならないし。Ruby がほぼ上位互換になった Perl ですら、決して滅びないと思う(Perl はすごいんで、Perl でできることはほぼすべて Ruby でできるけれど、その逆も真なのだ)。思えば、僕は Perl から始めたのだよね。結城先生の入門書、すばらしかった(いまでも読まれている筈)。

やー、同じことばかり書いているな。Ruby 愛(笑)。

okatake さんのブログの本日エントリに、シネコンで映画を観たのだが、最初に大音量の広告を延々と見させられ、本篇までにクタクタとあって共感する。そうなんだよ、僕などもつい時間どおりに入館してしまって、あれが嫌だ。先日観た映画はそうではなかったのだけれど、とにかく音量が大きすぎる。僕が映画館に行かないのは、そのせいも大きい。


澁澤龍彦『貝殻と頭蓋骨』読了。本書そのものはこれまで文庫化等されていないが、収められた文章は他の本ですべて読んでいると思う。思えば自分は学生の頃からずっと澁澤龍彦を読み続けている。まあ、その大半が文庫本によってであるが。いちばん熱心に読んだのは学生のときで、さすがに最近はそれほどは読まないが、それでも常に文庫本何冊かはベッドの脇に置いてあって、しばらくページを繰って寝たりしている。澁澤龍彦など高校生くらいまでには読んで、さっさと卒業しておけというような意見もあるが、自分はそれには与しない。
 本書は読み始めたら引き込まれて、一気に読了することとなった。澁澤の凄いところはその mundus imaginalis で、読めば誰でもわかるがすばらしく豊かな想像界である。それは古典的ともいえる広大な世界で、中沢さんは、「澁澤龍彦は、およそ現代人の想像力に可能な領域のすべてを踏破しおおせてみせた」と書いている(『蜜の流れる博士』所収「薬草園とサド」p.80)。現代において我々の想像界はとても貧しいものになったが、それは新たな想像界の始まりなのか、それともこれまでの世界の決定的な崩壊にすぎないのか、自分にはよくわからない。自分には、澁澤龍彦の世界は永遠の彼方に通じているようにも思われる。さて、これからも澁澤龍彦は読み継がれていくのであろうか?
 それにしても澁澤の博覧強記にはあらためて驚かれるし、別に特に澁澤らしくもない、本書の「フランスとサロン」という文章などには、ほとんど個人的な絶望を味わったほどだ。まあ、いまの学者は優秀だから、この内容を調べることは可能かも知れない。しかし、的確に時代背景を押さえつつ、見事な文章でゆるゆると展開されていく記述を読むと、これはやくざな学者などには絶対に書けないものであろうと感じる。とても足元にも及ばぬという実感。
 ちょっと金関丈夫南方熊楠を読みたくなってきた。それにしても、最近の平凡社ライブラリーはちっとも買う気になれなかったのだが、本書はありがたかった。かつては驚くような本が入っていたのだから、頑張ってもらいたいと思う。いや、そういうのはもう売れないのかも知れないが。

貝殻と頭蓋骨 (平凡社ライブラリー)

貝殻と頭蓋骨 (平凡社ライブラリー)

本書にも名前が出てくるが、トマス・ブラウンを誰かよい文章を書ける方が訳してくれないものだろうか。いちおうペーパーバックの選集は持っているのだが、どうせ自分の英語力では歯が立つまいと思われるので、翻訳をずっと待っているのである。それにしても翻訳大国である日本で、トマス・ブラウンがほとんど訳されていない(わずかな訳書は高価過ぎて入手不可)というのは、解せない話である。

ちょっとアマゾンのサイトで平凡社ライブラリーを調べてみたら、ああ、最近でも結構いい本は出ているのだな。もう本屋にはあまり入らないのか。とりあえずヘーゲル・セレクションを注文しておいた。