こともなし

晴。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。ツィマーマンのような大家がこのような作為の少ない演奏をしてくれるのはありがたい。バレンボイムみたいな生き生きした演奏もよいのだろうが、自分にはちょっとわずらわしいのである。でも、グルダなんかははじけるような演奏なのに、作為が感じられないのだけれどね。

いまはあちゅうさんのネット記事のせいで #metoo が爆発的現象になっているが、驚かされる。確かに痴漢とか抵抗できない人に性的な行為を行うというのは最低だ。というか、犯罪である。自分だって知らないキモいおやじに体など触られたくはない。けれども、そうは思う自分だが、どうも自分は最低な人間であることを免れないようだ。自分には、ちょっと会社の女の子のおしりにタッチしてみたいとか、若い女の子にきわどい冗談を言ってみたいとか、そういう願望は明らかにあると思う。ただ、いまとなっては女性に接する機会がほとんどないので、そういうことをしないだけだ。実際、20代の頃には、女性にかなりきわどいことをしたこともある。結局その女性とは結婚しなかったので、もしかしたらセクハラだったということになるのかも知れない。いまや、僕にきわどいことをされた女性たちにとって、それがイヤなことでなかったのを願うばかりである。以上、最低男でした。

とにかく、20代の頃はホントにやたらとセックスがしたかった。いまはそういう気持ちが衰えてきたので、却ってラクな気持ちになれたというのは本当である。いまでは、もの静かに(?)エロサイトでも見て楽しんでいる程度である。ちなみにエロサイトも受け付けないという潔癖な女性もおられるが、それはかなりの部分、男性の性欲の本質に繋がっているので、できればお許し頂きたいものだと思う。性の商品化は、古代からあったのだ。娼婦は世界最古の職業であるという。まあそれをなくすべきだというのが時代の流れなら、仕方がないとは思うし、受け入れるけれども。なお、自分は娼婦を買ったことはない。そういう嗜好ではないというだけであるが。

男女の仲というのも、むずかしい時代になったな。なお、西洋文明の価値観が入ってくる前の日本では、農民などの間では処女性に何の価値もなかったし、貞操を守るというような考え方もあまりなかった。江戸時代は既に安全に女性の一人旅ができた時代であり、実際に女性の一人旅は少なくなかったことがわかっている。それは不心得な男性がいなかったわけではなく、要求されれば女性があまり拘らなく性を与えたからであるらしい。別に、そういう時代がよかったといいたいわけではなく、性のモラルというのは時代と場所によって大きく変わるというだけのことである。いまはそういう時代ではない。

上の話とはあまり関係がないかも知れないが、僕は他人とのコミュニケーションというのは結構イヤなものだと思っている。それが不愉快なものであるというのは、むしろ当り前なのであって、しかし時代はそのコミュニケーションの「イヤさ」をできるだけ排除していこうという方向に進んでいる。いまの若い人たちについてよく言われることだが、彼ら彼女らは仲間内のコミュニケーションにできるだけ障害をなくそうとする傾向にあるという。つまり、仮に友達のしているのがまちがったことでも、友達がちょっとでも不愉快になるような言動はできるだけ行わない。同様な例であるが、大学の先生が彼ら彼女らの論文の問題点を指摘したりすると、自分の全人格を否定されたように思う子たちが跡を絶たないそうだ。男女関係についても、できるだけあたりさわりなく、だけれども突然王子様王女様が現れてくるのを願望するらしい。いや、それは極端な話なのかな。よく知りません。

まあ、こんなことを言っているオヤジだから結婚できなかったのかも。

あーそういや、いらぬことを思い出したが、自分は子供の頃、好きな女の子をいじめたことが何人かある。ごめんなさい。でも、たぶん彼女たちは、自分がその子が好きなせいでいじめていることに気づいていたと思う。気づかいでか。

先ほどまで NHK の「超絶凄技!」という番組を見ていて、日本の大学生たちがオーストラリアでのソーラーカーレースにチャレンジするという話だったのだが、感動して心が洗われるような気持ちになった。いや、単純な男ですね。日本からは 3チームが出場して、華々しい結果というわけではなかったが、いずれも完走し、いずれも見どころがあった。特に名工大のチームは完走した中では最下位で、それも特例(あまりにも不運だったのを克服したのに、一般道の渋滞その他の原因で、あと 2分というところでタイムオーバーだったのだ)で認められたのだが、じつはそこが特に感動的だったのだ。最後、名工大は独創的な「マジックブースター」で、技術賞を受けたのである。自分はこういうひたむきな若者たちに弱い。自分は技術に打ち込むことはなかったのだけれど、それなりにひたむきにやってきたことはあると思っている。でも、彼らのようなチームという形ではなかったな。学生たちは、カメラの向こうで輝いていました。

しかし、技術に打ち込むというのはうらやましいな。上の「マジックブースター」を考案した学生は日夜レースのことばかり考えていて、自分の本来の研究までおろそかにするという、技術というものはそこまで打ち込みがいのあるものなのだと思う。いまの中国人たちが輝いているのも、彼らのあまりにも楽天的な技術に対する確信のせいでもあると、我々は気づきつつある。それはまるで一昔前の日本で、上の番組でも学生たちをサポートした日本の技術者たちは、どうやらその世代に相当する感じだった。何となく、頭ばかり使ってきた自分などは、忸怩たるものを感ずる。そうそう、農業なんかも、本来はそれに近いところがあるのではないか。そんな気がする。


細野晴臣の新譜『Vu Jà Dé』を聴く。二枚組。
先日はカバー曲を集めたディスクを聴いたので、今回はオリジナル・アルバムの方を聴いた。何というか…自分以外は聴いちゃダメ、って感じ。ホントに自分、細野さんが好きすぎる。源一郎さんも細野さんも、カッコいいじいさんたちだなあ。特に、アルバム『HoSoNoVa』にも収録されていた「悲しみのラッキースター」には、センチメンタルな気分になってどうしようもなかった。このバージョンは青葉市子さんとのデュオになっているのだけれど、もう悲しすぎる。って、別に悲しい筈のないシンプルな歌なのですが、失われてしまった幸せ(比喩です)のようなセピア色のものを開いたアルバムで見つけたとでもいうか、いや青葉市子さん、細野さん、そんな風に歌っちゃいけないでしょ? 泣くじゃないか。


 

けものフレンズ第7話を観る。


極東ブログの仏教に関する最新エントリを読んで一瞬軽蔑心が湧いたが、何とも未熟であるな、自分は。仏教に関しては finalvant も宮崎も(さらにいえばおそらく佐々木も)頭でっかちでどうしようもないピントはずれのことを言っているが、そんなありふれた話に反応する自分が未熟である。仏教が知りたかったら仏教を生きてみるしかない。例えば吉本さんに仏教徒という自覚があったのか疑問だが、確かに吉本さんは仏教を生きておられた。そんなことをいっても、宮崎にも finalvent にも何もわからないだろうが。これは別に批判ではない。自分の言っていることが理不尽で当然理解され得ないことはわかっているし、未熟者の自分がその理解の壁を打ち砕くことができないのもわかっている。まあその気もないし。ただ、自分が未熟であることを自分で確認したかっただけだ。ただ、自分はいまの日本で仏教を生きている人たちが存在するのは知っている。ちなみにどうでもいいが、それは宮崎でも finalvent でもない。それにしてもこの程度で道元とは聞いて呆れる。よくもそういうことがいえるものだ。ニセモノが、恥を知るといい。

言っておくが、finalvent も宮崎も自分よりはるかに頭のいい人たちであり、仏教に関する知識も自分はおそらく彼らに遠く及ばない。そしてそもそも自分は未熟者である。それゆえ、あんまり下らない連中を見ると腹が立ったりするのである。愚か者とは自分のようなのをいう。