高橋源一郎『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』 / 山崎史郎『人口減少と社会保障』

日曜日。曇。

高橋源一郎『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』読了。母から借りた本。本書は新書版なのだが、小説である。とても変ったとてつもなく自由な小学校(どうもそこの生徒は、ふつうの学校に通えなかった子たちが多いらしい)の生徒数人が、プロジェクトとして「くに」を作るというお話である。源一郎さんのコアなファンである自分だが、一読してみてまったく理解できなかった。特におもしろくもなかった。主人公ランちゃんの父親はどうやら現在の源一郎さん自身がモデルのようだし、カントやルソー、天皇家やエリザベス二世英女王、そして南方熊楠を思わせる(豪華な)人物たちが登場し、また本書のモデルはこのところ話題になっている『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)であるらしい。また、本書の国家観は源一郎さんのそれが強く投影されているのだろう。しかし繰り返すけれども、自分には本書がまったく理解できなかった。たぶん、自分がピュアなものを失ってしまっているせいかもしれず、あるいは柔軟な子どもたちの頭ならよくわかるのかも知れない。本書には、このところ自分が「国家」に対して、あるいは「国家という概念」に対して抱いているいらだちのようなものと交錯するところがほとんどない。自分にとって、「国なんかなくてもオーケイだったわけだから」(p.258)というような一種のアナーキズムは、正しいかも知れないけれどどうでもいいことである。自分のいらだちは、それこそ国家などあまり意識したくないのに、国家が我々を絶対に放おっておいてくれないことにある。また、我々はもはや国家なしでは生きていけない。それは人間の本来的な生き方ではないかも知れないが、我々がそのような本源的な状況の中で生きることは、いまも将来もまずムリなのだ。あるいは最終的な核戦争などが起こり、人類の大半が死滅でもしない限りは。
 しかしまあ、さすがに源一郎さんの小説であるから、読ませることろもあった。自分が思うに、本書でいちばん「キャラが立っている」のは、ランちゃんのお父さんである、源一郎さんみたいなおじいさんの小説家だ。その人の発言は、じっくり考えさせるところがあった。また、本書は一種の「(精神)障害者小説」としても読めるかも知れない。本書に出てくる子どもたちの多くがどうやら「障害」をもっているかのようであり、主人公のランちゃんもまたふつうの学校に通うことができない子として描かれている。そのことがこの小説に与えた効果は、測定するのがちょっとむずかしいが。

本書から補助線を引くなら、ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』とかだろうか。また、中沢さんの論考も参考になるだろう。しかしこれらは、短期的な意味ではなかなかアクチュアルとはいえまい…。自分の思うところでは、このような補助線からは、現代における「中間的社会の崩壊」という方向に繋げるのがいちばん喫緊な課題である気がする。国家そのものを対象にすると、現在の面倒な社会学的議論に必然的に巻き込まれてしまう。僕はそういうのは、アカデミズムにまかせて放っておくしかないようにも思われるのだが。

僕が思うには、国家と関わるというのは絶対的にイヤなことである。それは我々を必然的にイヤな人間にせざるを得ず、それ以外の関わり方はあってもお子様ランチでしかない。それなのに、イヤでも現代に生きる以上、国家に関わらざるを得ないのである。その論理的必然として、我々はイヤな人間になる。それ以外の方法は存在しない。それは現代人の一種の原罪である。

ふと思ったが、本書は一種の「セカイ系」の小説だね。ふつうの子供と「国家」という隔絶するレヴェルの存在が、ファンタジーとして隣同士になってしまっている。

ああ、今日ってクリスマス・イブなのか。迂闊にもテレビのニュースを見ていて初めて気づいた。おそらくいまの日本人が一年でいちばん気にする日であろう。自分はもはや何十年間気にしたことがないが。

山崎史郎『人口減少と社会保障』読了。自分にはかなりむずかしかったが、一読して強い感銘を受けた。膨大な量のデータと思索を背後に感じさせる、きわめて骨太な一冊である。内容はまさしく題名の表わすところで、そのようなものであると思ってもらったらよい。著者は厚生省の元官僚で、介護保険制度の立案から施行にまで関わった、「ミスター介護保険」ともいわれる人物であるそうだ。介護保険制度の現状を自分はよく知らないのであるが、以前から傍観者として介護保険制度がよくできた奇跡的な制度であることに感嘆させられてきた。それゆえというわけではないのだが、本書は日本の「人口減少」というきわめてむずかしい問題に対し、基本的にどういう対応をすればよいのかというグランド・デザインをスケッチした仕事だともいえようか。それはじつに多くの問題と根底から絡み合っており、正直言って自分にその全体像がわかったとはいえない。例えば「少子化」にしても、「晩婚化」という男女の個人の問題でもあるし、けれどもそれはマスとしては社会的施策の対象でもあり、それにはまた援助によるのか制度の問題なのか、また個人と(弱体化する)社会の問題でもあり、また雇用の問題でもある。また、それらとは別に、「社会的孤立」や「精神疾患」の増大という問題にも直結している。そうして、全体として出生率を増加させつつ、人口減少をできるだけ食い止めねばならない。また、人口減少と「地方」という問題系もある。つまりは、すべてが関連しあっているのであり、繰り返すけれども自分の能力では消化しきれなかった。いずれにせよ、本書の描くグランド・デザインは、考え抜かれたものとして、自分の中では「たたき台」として見事な成果であると思われた。もちろん自分などはどうでもよいので、本書が広く消化されることは有意義であると確信している。本書は、いまや中公新書にしか可能でない、新書としての大きな役割を果たし得る書物であると思われる。

それにしても、いまの日本には自分のような役立たずがたくさんいて、それが大きな社会問題のひとつになっているのだなあとまたしても思わされた。ここから、自分のようなカスは、他人に迷惑をかけるくらいなら死んだ方が人のためになるという考え方まで、あと半歩くらいのものである。しかしそのような考え方は、カスといわれることを承知の上で(実際にそうなのだから)できるだけ拒絶したい。それよりも、カスのカスぶりをブログなどにある程度残しておきたいと思っている。死ぬのはそのあとでよいのではないか。カスの言い分としては、まともな生活者でも、希望にあふれた若い人たちでも、何が起こるかわかりませんよということである。自分の力ではどうしようもなく、カスの立場に転落してしまうことは、いまや意外とありふれているのを自分は知っている。だから、社会としても、カスをあまりにも糾弾することは、それほどよいことであるとは自分には思われないのである。以上、カスの苦しい弁明である。

いまの時代の人間は他人とふれあうのが一般的に苦手なのだ。人とのきずなが弱い。自分などはその典型で、人と会うのは基本的に億劫である。もちろんこれは個人差が大きいことなわけだが、どうして皆んな結婚しないの?というに、あんまり他人とコミュニケーションを取りたくない、昔からの家族だけで充分という心性が働いているのは否定できないと思う。「よい人とめぐり合わない」というのは、結局それがずっと続くのである。そして、「社会的孤立」に至るというわけなのだ。いまや、生涯未婚率(50歳で結婚していない人間の割合)は男性の四分の一となっている。数十年後には、それが三分の一になるらしい。また、女性の未婚率の増加は、男性のそれを上回るハイペースなのである。そして、最初に子どもたちが減り、次いで働く世代が減り、最後に老年世代が減る。それはデフレスパイラルのように、時間が経つごとにお互いがお互いを加速させてゆくのだ。ゆえに、相当に出生率が増えても、この負のサイクルは簡単には止められないことになるわけである。

本書を読んで思ったのだが、「人口減少」の問題を解決する(というか、「人口減少」を止めることはもはやムリである。せめて、その程度を軽くすることしかできない。それは識者のほぼ一致した意見であろう)、これをすればよい!というようなきれいな特効薬はないもののようだ。個別の問題を、丁寧に解決していくしかないようなのである。本書の終章は提言をコンパクトにまとめてあるが、幅広い観点からの分析にかなり成功していると思われる本書でも、具体策はかなりショボい。だから、グランド・デザインを提示するに留まっているという見方もできるだろう。しかし、これはこれから皆んなで考えていくべきことであるということなのだろう。まったくむずかしい。

生きづらい時代だ。