渡辺京二『近代の呪い』

晴。
音楽を聴く。■オネゲル交響曲第四番「バーゼルの喜び」(プラッソン)。変な曲。■シューベルト:ピアノ・ソナタ第十九番D958(ポリーニ)。ポリーニの力に圧倒される。特に終楽章は、これはどちらかと言うと散漫な音楽だと思うのだが、ポリーニはこれに楽々と統一的なパースペクティブを与えて、軽々と演奏してみせる。技術的にも解釈的にも、あまりにも容易な感じだ。こういうのを、本当のヴィルトゥオーゾと云うのだろう。やはりポリーニは特別なピアニストだ。浅田彰の言うとおり、「最後のピアニスト」にちがいない。モダンの極致。

渡辺京二『近代の呪い』読了。名著だと思う。著者は恐るべき実力者だ。年齢というものをまったく感じさせない、大変な内容の濃さである。本書の中で重要なところを指摘するだけで厖大な量になってしまうので、簡単な感想だけ。
 まず、現代人の生活は、ほとんどネーション=ステートの管理下にあるということ。昔は民衆はお上のことなど知らないで済ませていられたが、今は誰もが天下国家を論じるし、そうしなければならないような雰囲気になっている。しかし著者は、大衆にいちばん大切なことは、決して天下国家の問題ではなく、自分の生活圏の中にあるということを強調する。「私たちはまったくの個人として生きるのではなく、他者たちとともに生きるのですから、その他者たちとの生活上の関係こそ、人生に最も重要なことがらです。そして、そういう関係は本来、自分が仲間たちと作り出してゆくはずのものです。」(p.52)それはもちろん、天下国家を無視していけばいいということではなく、優先順位の問題なのだ。確かに、今アナーキスト的な発想が重要になっていることは、自分も強く感じる。
 また、今日世界は、ほぼ西洋化されたということ。これにはいい面も悪い面もあるが、その事実を忘れてはならないこと。例えば、アジアはアジアでやっていけばいいなんて考え方は、まったくの誤謬なのである。また、ネーション=ステートの強力さから云って、世界国家というのも当分は不可能であると。そして、世界がインターステート・システムとしてほぼ完成した以上、逆説的にナショナリズムは強くなる。例えばサッカーの国際試合など、戦争の代理の側面があるのだ。
 そして、世界の人工化。これは養老孟司氏の言う、世界の「脳化」である。脳が作り出したものが、ますます世界を覆っている。例えばアフリカのサバンナの真ん中に、突如高層ビルの林立した、近代都市ができあがっているという衝撃。「私は…、人間がこのコスモスの中での正当なしかるべき地位を喪って、コスモスの中に宇宙基地のような人工空間を作って、その中で歓楽を尽くそうという志向こそ、経済成長至上主義、社会の全面的な経済化の最も悪しき、最もおそるべき帰結だと思うのです。」(p.152)
 さて、以上で本書の重要さがどれだけ伝わったか疑問だが、例えば「現代を知る」ということがしたいなら、本書は必読書なのではないかとすら思うのだ。

それにしても、渡辺京二さんはもう相当のお年なのに、すごく勉強されている。この頭のよさと勉強量は何なのか。比較するのも愚かだが、到底かなわない。というか、最近ブログなどを読んでいても、年配の方々のそれには読み応えのあるものが多い。ブログだけでなくて、本でもそうか。五十代以下のそれの多くは、正直言って、俐い、偏差値は高いだろうと思うものは少なくないが、ただそれだけのことである。俺はエリートだって威張っているのだけどね。利発なだけが取り柄で、それがなければカスという奴が少なくない。まあ、自分らの世代は、それに輪を掛けてひどいが。自分のことは棚に上げて云っているのだけれど。自分などはまったく大したことがないのは自明。

県図書館。ウォーラーステイン井筒俊彦などを借りる。