『石原吉郎セレクション』

曇。
音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十番 op.74(ゲヴァントハウスQ、参照)。いわゆる「ハープ」。この曲は何だか覚えにくい。ゲヴァントハウスQを肯定的に聴けるようになったのだけれど、お上品なベートーヴェンという事実は変わらないな。って当り前か。
Cairo の出力を Ruby/Gtk で扱うことに没頭(参照)。疲れたなー、ってアホだ。
画竜点睛。

石原吉郎セレクション』読了。読み応えのある本だった。自分のいまの生活はお気楽であり、著者がシベリアで直面した「地獄」(という言葉は不思議にも本書には一度も出てこないと思う)とは極端なまでに正反対に見えるだろう。しかし、それにもかかわらず本書の内容はまったく理解可能である。著者が帰国して出会った、フランクルの『夜と霧』を読んだときもそう思った。他人から見れば、自分のようなお気楽な人間に石原吉郎フランクルがわかるわけがないと思われるかも知れない。それはそうなのかも知れないが、自分にはそうはどうしても思えないのである。もちろん著者の体験とは天と地であろうが、自分の、そして自分たちの現在の生もまた「地獄」なのだ。事実として生きる意味は一切ないというのが正しいし、生は基本的に苦痛である。あわてものは、それでは死ねばいいと言うかも知れないが、まったく何もわかっていない。生はもともとそういうものなのである。だから死ぬとか、まったく関係のないことである。それでも我々は生きるのである。ただし、生に喜びがないというのではまったくない。また喜びもあるのであり、喜びを一切欠いた一生というものも、まずは存在しないものであろう。
 石原吉郎は本書で、体験というのはじつは「追体験」しかないと言っている。「原体験」というものは、体験の予感の如きものであると(p.86)。これはまったく正しいように思われる。著者はシベリアでは体験というものをしておらず、体験の苦痛は帰国してから一気に始まったのであると。自分に引きつけて云えば、我々にもまた体験がない。それはまったく「追体験」を禁じられているからである。我々は体験のないまま、その予感だけで死んでいくことになるのだ。
 それから、あと本書で著者は、名前というものそのものの重要性を指摘する。名前だけが帰国した兵士たちはたくさんいるが、その名前だけを他人に託す人間もいるのだ。蓮實重彦だったかも言っていたが、まだ固有名というのものの不思議さは解き明かされているにはほど遠い。石原吉郎は、自らの思索でそこにたどり着いている。

石原吉郎セレクション (岩波現代文庫)

石原吉郎セレクション (岩波現代文庫)

サンチョ・パンサの帰郷』を読んだのはまだ最近であるが、いつものごとくよく覚えていない。また図書館から借り直してこよう。