ガザーリー『中庸の神学』/森和俊『細胞の中の分子生物学』

晴。
中沢新一を読む。壁を壊すのは本当に容易でない。行き詰まっていて苦しいとき、どれほど中沢さんの著作が役に立ったことか。というか、救われたと言ってもよいのだが、誤解する人がきっといるのであまり言いたくない。我々はじつに、様々な壁で自分を雁字搦めにし、感受性を狭くしている。深くない人間などいないのに、自らを浅くしている。むずかしいものだ。
植物には向日性というものがあるが、精神において向日性は重要である。向日性を失えば、重力の魔に囚われてしまう。そういうことはどのような人間でも、いつでも可能だ。ただ、向日性というのは冥いものから目を背けるということとはちがう。むしろ、それは一種の技術である。
2016年夏_19
プランターで育てたミニトマトが、いっぱいに実をつけました。もう花は咲いていないので、あとは生ったの限り。宝石のように真っ赤に熟しているので、撮ってみました。完熟のやつらです。

ガザーリー『中庸の神学』読了。「誤りから救うもの」「中庸の神学」「光の壁龕」の、ガザーリーの代表作三篇から成るという、充実した訳書である。「誤りから救うもの」はちくま学芸文庫平凡社ライブラリーかで既読であるが、いつもながらいい加減な読書で、中身はまったく覚えていなかった。イスラームの古典はもっと翻訳して欲しいし、手軽なエディションで提供して欲しいものである。だから、この東洋文庫版はとてもありがたい。『哲学者の自己矛盾』も買ってあるので、そのうち読むつもりである。


なぜ各政党は対中政策について思考停止に陥るのか――日中の「立憲主義」の現状をめぐって / 梶谷懐 / 中国経済 | SYNODOS -シノドス-
勉強になったのでリンクしておく。それにしても、

多くの論者も指摘するように、国民主権が成立した現代における「立憲主義」は、君主制への対抗として生まれた近代のそれのように単純に「憲法によって権力を縛」ればよい、というものではなくなっているからです。

なのですかあ。現在では、立憲主義というのは「嘘くさい」とすら言われるのですね。僕は憲法が権力を縛るというのは当り前だと思っていたのだが、いまではそれは必ずしも筋の良い考え方ではないらしい。どうしてか。梶谷先生の文章を読むと、立憲主義には「人権」が付きもののようだ。つまり、「人権」によって「国家を縛る」と。しかし、その「人権」を正当化する根拠があるのか?ということらしい。これは知らない議論で、こちらのまったくの勉強不足ということのようです。僕には「民主主義」というのも似たような発想に思えるのだが、民主主義はきちんとした根拠があるということなのだろうな。どうも「人権」にはしっかりした根拠がないので、国家がこれを踏みにじっても非難はできないということなのだろうか(極端な議論?)。
 以下は梶谷先生とは関係のないことですが、「国家」というのは過ちを犯さないのだ、そうでないと言う奴は非国民という発想がいまや強くなってきているのを感じる。というのは極論かも知れないけれど、しかし、僕は「国家は国民のためにある」というのが当り前だと思っていたのだが、どうもその反対の考えをもつ人が増えてきたのは間違いのないことだと思う。どうもリベラル=うさんくさいという雰囲気もあるし。ホントに自分は時代遅れのおっさんになってきた感じ。
 しかし、梶谷先生の解説を読むと、憲法自民党案はいくらなんでもひどすぎるでしょう。というこちらがおかしいのか? こんなのに改憲されたら日本はオワリだし。ああ、「日本オワタ」は言わないのだった。
 僕は国家には国家の論理があって、それは必ずしも国民の安全と幸福を第一とするものではない、と思っていて、そんなことは当り前だと考えていたのだが、どうも「国家の善意を疑うな」みたいなことを学者まで思っているというのは、まったく当惑させられる(これは梶谷先生のことではないですよ)。国民が国家を疑うのは当り前じゃないの? まあ、エリートってのはまさしく国家のためにある存在なわけだが。たぶん、自分こそが国家だみたいな全能感に知らず知らず侵されていくのかも知れない。
 何だか疲れてくる。カスはだまっていた方がいいのかも。

現在は我々の心の奥までマーケットが支配している時代だ。ネットで或る若い女の子が「結婚は CP が悪い」って言っているのを読んで、これがいまなのだと思った。まあ、すべての若い人がそういう感覚なのではないだろうけれど。ちなみに、CP ってのは「コスト・パフォーマンス」のことです。若い女の子ならセフレを見つけるのはそうむずかしくないだろうし、あとは CP なのだなあ。で、いまの男の子はよく知らないのだが、彼らも結婚を CP で判断するのだろうか。いや、女の子たちに比べれば遙かに「ロマン派」だと想像する。統計は、男性の年収と結婚率があまりにもきれいに相関していることを冷徹に示しているわけだが。

僕にはルソーの「一般意志」というのは、典型的な「ゼロ記号」(なんていうと歳がわかる)だと思われる。つまり、具体的な内容のない概念で、何でもありという。しかし、どうしていまやこの「一般意志」の概念が多くは自明視されるのか。どうなっているのか? またまたこちらの無知か。前提が無意味であれば、そこからいかなる命題でも導出できるというのは、論理学の初歩ではないのか。何だか我ながら、あまりにも低レヴェルなことを言っているようだ。無知。


森和俊『細胞の中の分子生物学』読了。これはとてもいい本。分子生物学の発端から、著者らによる最新の研究まで、わかりやすく説明してくれる。中身は恐らく学部生レヴェルに近いので(もちろんそこまで詳細ではないけれど)、相当に高度な内容だが、これ以上は無理というくらいわかりやすい。予備知識は、高校の生物学の概略くらいでいけると思う。さすがに著者自身らが発展させた分野に関しては一般向けとしては高度すぎるが、これはまあ仕方のないところであろう。自分の知識も相当にアップデートされた。分子生物学に興味がある方にはお勧め。