永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:トッカータとフーガ ニ短調 BWV565、オルゲルビュヒライン〜「おお罪なき神の小羊よ」BWV618 (レオンハルト参照)。BWV565 は超ポピュラー曲。■ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第一番 op.15 (リヒテル、クリストフ・エッシェンバッハ参照)。1988/6/7 Live. これはリヒテルのというより、エッシェンバッハベートーヴェンだ。最初は全然ダメかと思ったが、終楽章まで聴いていくとそう全否定でもなくなった。また聴いてみないといけないな。■ハイドン:ピアノ・トリオ イ短調 Hob.XV-18 (トリオ1790)。

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第3集

ハイドン:ピアノ三重奏曲全集 第3集


昼から雨。カルコス。
永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』読了。僕は以前は永井均氏の書くものをとてもおもしろいと思っていた。たぶん、このブログの過去記事を探せば、そういう感想を書いたものがあると思う。しかし、本書はじつに退屈だった。永井氏は変っていないので、こちらの感受性が摩滅したのかも知れない。僕の感じたところでは、永井氏の言うところは「他人の意識を知る方法はない」ということに要約されるのではないかと思う。しかし、たぶんこんな簡単なことではないのであろう。永井氏の主張が仮にそれであれば、それは確実に正しいことである。実際、色盲の人はそうでない人と「ちがった」世界を見ていることは証明可能である。そして、永井氏の仰るとおり、「自分」にとって、「他人」に意識が存在していることを証明する方法はない。これも確かなことだ。しかし我々はお互いにコミュニケーションを取ることが出来、複雑な社会まで形成していることもまた事実である。それは確かに哲学的には「驚くべき」ことであろう。しかし、正直言っていまの自分には、こうしたことはどうでもいいのだ。これは冗談だが、永井氏は人間が「恋愛をする」ということをどう思われるのであろうか。我々には確かに相手が意識のないゾンビでないということを証明することはできない。しかしまた、我々は理屈で恋をするわけではない。というか、恋をするということは説明不可能である。好きになるというのは回避不能なできごとであり、そのとき我々は、相手に「他者」と「自分」の両方を見ている。相手は自分のことをどう思っているのだろうとか、気になるのがふつうではないでしょうか。相手が意識のないゾンビでは、なかなか恋に落ちることはむずかしそうである(まあ、永井氏ならばゾンビに対して恋をすることは可能であると仰るであろうが)。
 それから、本書とは少しズレるかも知れないが、「私的言語」云々だけれども、自分だけに通用する言語という観点ではなくて、仮に人類の誕生が地球にただひとりだけだった場合、言語は生まれないような気がする。そしてそのただひとりの人類は、あるいは発狂して死ぬのではないか。というのは証明可能な言説ではないが。なお、永井氏は華厳の重畳無尽的なビジョンを理由もなしにあっさりと否定されているが(p.49)、僕にはどう思っても華厳が真理という気がしてならない。それが誤りである理由を説明して欲しかったものである。それから、これは永井氏が「病気」であるというものではないが、永井氏のような発想はある種の(離人症的?)精神疾患のあり方と似ている気がする。ただ、自分にははっきりしたことは言えないので、これは直感にすぎない。まあ、ある発想を精神病乃至神経症と関連付けるのは、確かにあまりいい趣味ではあるまい。
僕が思うに、永井氏は哲学的センスは抜群だが、思想的センスはほぼゼロである(何様ですね)。哲学的センスがあることは結構だが、あんまり他人をバカにしない方がいいような気がするのだけれども、どんなものであろうか。もう少し言っておくと、上に挙げた「恋愛」というのは、自分の言う「哲学」よりも「思想」に近いのである。
さらにもう少し言っておこうか。我々が他者を理解するとき、その多くが「言語」によってなされるということはあり得る。しかし、それは必ずしも「単語」だけによるものではない。むしろ「単語」の割合はかなり少ないだろう。これが現実である。哲学者が理解していないのは、そのことである。