横山紘一『唯識の思想』

曇。
音楽を聴く。■シューベルト即興曲集 op.90 D899(ブレンデル参照)。どうも違和感。ブレンデルは誰もが賞賛また賞賛というピアニストだったと思う。しかしこの曲に関しては、非の打ち所がない演奏だとは思うのだが、どうもブレンデル、この曲は対象に過ぎないようだ。ただ、音楽的に弾かれているだけ。それで何が問題なのかと言われると、返す言葉がない。■ハイドン:ピアノ・トリオ変ロ長調 Hob.XV-20 (トリオ1790、参照)。

色いろ心が狭くていけないなあと思うことしきり。例えば無自覚に東京を特権化したような文章とかテレビ番組を見かけたりすると、反射的に軽蔑する心が抑えきれない。そんなことどうでもいいのに。こんな簡単なことでも修行が足りないなあと思う。
 京都も似たようなところがあって、僕は京都びいきだけれど、テレビでやっている京都はウソの京都ばかりである。たいてい京都通みたいなバカが出てきてわけ知り顏に「京都の伝統」とか言っているのをみると、「×××」と言いたくなるのを(これも)抑えきれない。ああいう京都も存在するが、僕の京都とはあまり関係がないのだ。また一方で、「京都って古都なんていうけれど、ただの都会ですよね」っていうような紋切り型に対し、「京都にはたくさん人が住んでいるから、仕方がないところもあります」(って標準語で書いたけれど)などと返すのが、僕の京都に近い。
うわあ、なんかネガティヴ。

ローカル路線バス乗り継ぎの旅、最新回を見ました。いつもながらおもしろかったなあ。マドンナのはいだしょうこは、まったく天然で楽しかった。あっけらかんと混浴していましたね。でも、足がひ弱すぎるし。リーダーはまたまた大した気配りで、それに二人が疲れて寝ていてもいつも地図とにらめっこ。今回はうまくいってよかったですね。こちらも安堵した。
横山紘一『唯識の思想』読了。確かに知識はあるので、勉強にはなる。それにしても著者は相当えらい人であるようだが、ちょっと微妙すぎる。もう今日はあまりネガティヴなことは書きたくないので、少しだけにするが、例えば「心を清浄にする」というのは、仏教の第一義ではない。これは多くの初心者が間違えるところである。もちろん「心を清浄にする」というのは、大切なことではあり、望ましいが、それでもそれが仏教の第一義でないことは初歩的な話だ。
 それから、本書冒頭の「無我」というのも、本書の説明はあまりにも微妙だ。著者は仏教は唯心論であると思っておられるようだが(どうもバークリー哲学の解説のよう)、それはある意味間違ってはいないけれど、そういう理解もまた微妙。というか、著者は本当はすべてを理解しておられて、素人にわかりやすいように敢てあまりにも微妙なことを仰っているのだろうか。著者は仏教辞典まで作ったえらい人であるようなのに、僕には半可通の説明にしか思えないのだが、こちらがおかしいのだろうか。わからない。

唯識の思想 (講談社学術文庫)

唯識の思想 (講談社学術文庫)

なお、本書とはあまり関係がないが、前から思っていたのだけれども、唯識そのものが、大乗仏教としてはかなりギリギリのところなのではないか。唯識をやっていると、般若心経ですら忘れてしまいそうである。それは仏教における「スコラ哲学」なので、内容は極めて慎重に吟味される必要があるだろう。
バカなことを書きますね。本書は「ヨーガをやってきれいな心を手に入れよう」って類の本と、究極的に何がちがうのだろう。っていうか、それが仏教だと思っている人は多そうだ。うーむ。