こともなし

晴。
昨晩遅くまで、借りてきた『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』を読んでいた。まだ少ししか読んでいないけれど、明治の日本人の志の高さに粛然とさせられた。まだ若くてロンドンに居る、もちろんまったく無名の熊楠が、自分は将来に何の見込みもなくて、そのうちどこかでのたれ死ぬだろうけれど、次の世代の俊英たちのために役に立つものを何とか残しておきたいみたいなことを真剣に書いているのなどを読んで、涙が出そうになる。ホント、自分もそうだけれど、いまの日本人は皆んないい加減にした方がいいよ。
 それはともかく、この本すでに最初からおもしろすぎる。土宜法竜って人も滅多にいない人であることが直ちにわかる(熊楠がテキトーなことを言っているとすぐに鋭いツッコミが入るのだ)。優れた真言僧で、若くして大した見識をもち、何よりも生き生きとした精神の持ち主だ。出会ってすぐに二人が意気投合したのも宜なるかな
音楽を聴く。■シューベルト:ピアノ・ソナタ第十四番 D784(ピリス、参照)。ここ数日間、この曲の第一楽章が頭から離れなかったので、聴いてみた。しかし、天使的音楽と空疎な部分のコントラストが激しい曲だな。第二主題はセンチメンタル全開になってしまう極美の旋律なのに、展開がぎこちなさすぎる。第一楽章以外は出来が悪いし。困った曲である。でも、もしこの曲が書かれなかったら、人類の大損失だろうな。

昼から運転免許の更新。顔写真が5年前からだいぶ老けるかなあと思っていたのだが、それほどでもなかったのでまあよかった(?)。警察官の某天下り組織への「寄付」がなかなか断れないのだが、目の前の何人もの「お願いします」攻撃を平然とガン無視していくオバハンたち(だけではないと断っておかないと、叱られますね)には感心する。さすがだ…。
どうでもいいけれど、テレビなどで自分と同年齢あたりの人の顔を見ると愕然とする。この人たちと同い年とは! はっきり言って、僕はそんなにひどくはないと確信しているが、それはたぶん家庭を持っていないせいもあるだろう。しかし女性など、オバハンというか何なのか、「劣化」(ヒドい言い方ですね)とでもいうか、恐ろしいことになっている。怖すぎて同級生に会えない…。それに比べたら、自分の(他人から見た)「哀れ」な状況を晒すなど、別に大したことはないですね。僕はこれまでの生き方について、後悔はまずしていないので。玄侑さんではないが、人生は「なりゆきを決然と生きる」ものなのだと思っている。むずかしいですけれど。
 ホント、どうでもいいな。

ドラッグストアまで散歩。
2016年夏_14
2016年夏_15
音楽を聴く。■シューベルト:ピアノ・ソナタ第十四番 D784(内田光子参照)。夕方聴いたのと同じ曲。初めブレンデルの録音を聴こうかと思ったのだが、一聴してミスマッチだとわかったので、内田光子のにした。第一楽章であるが、僕はここには空疎な部分がたくさんあると思うのだけれども、内田光子はそれをすべて意味があるように徹底して解釈して弾いている。だからそうした部分も深いように聴こえるけれども、自分には解釈過剰のようにも感じる。だから、極美な第二主題が比較上浅く感じられ、あまり目立たなくなっている風に聴こえてしまう。僕は、シューベルトの頭の中で鳴っていた音楽は、ピリスの演奏に近いのではないかと思う。それが正しいかどうかは知らない。なお、その他の楽章はもともとあまり価値がない。■ハイドン:ピアノ・ソナタ第五十番、シューマン:ノヴェレッテン op.21〜第一番、第二番、第八番 (リヒテル参照)。1960/10/25 Live. ハイドンはちょっとテンポが速すぎるような。ノヴェレッテンは自分のレヴェルを超えた曲なのだが、得るところがあった。