久生十蘭『墓地展望亭・ハムレット』

曇。
起きたあとの顔が気に入らない。まだまだ修行が足りないな。
音楽を聴く。■モーツァルト:セレナーデ変ホ長調 K.375(ホグウッド、参照)。ホグウッドおもしろいな。思い入れがないところが却って爽快。プロだし。

うどん「ひらく」にて昼食。ころうどん750円。
久生十蘭『墓地展望亭・ハムレット』読了。ああ、おもしろかった。「墓地展望亭」については昨日ちょっと書いた。久生十蘭はよほど自分に合っているのだろうな。エンターテイメントよりおもしろいというか、エンターテイメントってたいていは幼稚くさかったり文章がひどかったりで、じつはこれほどおもしろくないのである。世の中の書物がみな久生十蘭ほど魅力的だったら、活字のみの世界に生きて後悔しないと思われるくらいだ。まさしく、魔術のような文章の力だけで、絢爛たる空中楼閣を現出させて見せる。芸術? 確かに芸術でもあろうが、そのあたりのことはえらい人に任せておこう。とにかく、日本語ってのもこういう洒落たことができるという、恐るべき証明であろう。もうこんな人は二度とあらわれまい。


荻原魚雷さんのブログの今日のエントリーを読んで色いろ考えた(「境遇の犠牲者」)。僕は『ヘンリ・ライクロフト』は読んでいたし、該当の山田稔のエッセイも読んだ記憶がある。まあ、ここでは山田稔は関係なくて、ギッシングの「境遇の犠牲者」についてである。これは読んだ覚えがないが、魚雷さんが要約している話を読んでみて、これはひとつの典型であると思った。高名な画家が見た、無名画家のまったく取るべきところのない未完の大作…。これは、この作中の双方の画家も、ギッシングも、そして魚雷さんも勘違いされていることであるが、高名な画家の歴史に残る傑作も、無名画家の未完の愚作も、じつは大したちがいはないのである。というとじつに抹香臭くて嫌味な意見ではあるが、やはりこのことは基本的にそういうしかない。ちがいはほぼすべて、我々の中にある名誉欲が生み出す。では、作品の客観的価値はどうなるのか。もちろんそれはあるが、それもまた大したことではない。ただ、「傑作」には贈与の力がある。「傑作」を前にした数万人にひとりか、ではないかそれは知れないが、その作品から誰かが無償の贈り物を受けるということがあり得る。そこだけはちがいがあるといえるだろう。ただそれは、「客観的価値」に関係があるのか、それはわからない。いえるのは、「客観的価値」の確立には、多数の精神の死屍累々を乗り越えて行われるしかないということである。それくらい、我々は煩悩に塗れた凡人であるということだ。いや、どうも話が大きくなりすぎて、恥ずかしいことであります。
 まあしかし、ふつうはそんなことは考えない方がいいことは確かであろう。そういうことを考えると、「人生を誤る」。それに、すなおに画も見られなくなるし、本も読めなくなる。厄介なことである。僕などは単純なので、おもしろいとかどうとか、それくらいしか考えない。むかつくときはむかついてしまう。時には愚作が跋扈していることに腹が立つ。矛盾した平凡人である。