清岡卓行『ひさしぶりのバッハ』/『KAWADE道の手帖 ドゥルーズ』

曇。のち雨。
音楽を聴く。■バッハ:二台のヴァイオリンのための協奏曲 BWV1043(レオニード・コーガン、エリザベータ・ギレリス、オットー・アッカーマン、参照)。特に不満なし。コーガンはいかにも往年の大ヴァイオリニストという感じ。エリザベータ・ギレリスっていうヴァイオリニストはよく知らないのだが、こちらもなかなか上手い。曲も昔から好きないい曲。■モーツァルト:セレナーデ変ロ長調 K.361 (ホグウッド、参照)。いわゆる「グラン・パルティータ」。じつに隅々まで注意の行き届いた演奏であり、またアンサンブルがすごくハモっていて気持ちがいい。プロの仕事だ。曲のよさがよくわかる。ホグウッドっておもしろい。■ブラームス交響曲第三番 op.90 (バーンスタイン NYPO 1964)。以前にも書いたとおり、バーンスタインブラームスがわかっていない。すばらしい音の塊ではあるのだが。しかし、ブラームスがわかるわからないというのは、それ自体むずかしいものだと思う。それはいったい何のことなのか。この演奏を聴けば明らかなのだが、バーンスタインがこの曲をきちんと勉強しているのは間違いない。何かこう、魂のすれ違いみたいなもので、わからないのはどうしようもないし、さらにそれを言語化するのはちょっと自分の手に余るとしか言いようがない。そうは言ってもわかるというのも色いろなレヴェルがあって、この曲の終楽章などは自分にもわからないといえばわからない。というか、そもそもブラームスも、終楽章には悩んだのではないかと思う。何だかふらふらしていて、尻切れトンボみたいに終っているし。ふーむ。さても色いろ考えました。

図書館から借りてきた、清岡卓行『ひさしぶりのバッハ』読了。どうやら著者最後の詩集らしい。絶筆に相当する詩も収められている。偶然とは云え、最初にこうした詩集で著者に出会うのは少々不運だ。どうしても感想に余計な想念が混じってしまう。さて、詩としてはどれも素朴で素直なものだ。散文の分かち書きに近く、特に言うべきこともない。著者をよく知らないせいか、さほどの感銘も受けなかった。ひねくれ者であろうか。

ひさしぶりのバッハ

ひさしぶりのバッハ

図書館から借りてきた、『KAWADE道の手帖 ドゥルーズ』読了。副題「没後10年、入門のために」。流行が去ってから読むというのもひとつの方法。ドゥルーズが真に価値あるなら、いま読んでも意味がある筈だ。っていっぱい読んできたけれどね、これまでも。いまだによくわかっていないようだが。まあいいんです、それでもね。しかし、日本の秀才たちは何をやっているのだろうね。バカじゃないだろうか。かしこいんだから、浅田さんみたいに明快なチャートでも作ればいいのに、その能力もないのだな。ちっとも役に立たない。
ドゥルーズ KAWADE道の手帖

ドゥルーズ KAWADE道の手帖

岩波文庫に入った久生十蘭を読む。まだ半分くらいしか読んでいないのだが、所収の一篇「墓地展望亭」に非常に感動したので、それについて少しだけ。この岩波文庫版で100ページあまりと、中篇というところであり、久生十蘭はほぼ読んだ筈であるが、これは読んだ覚えがない。これまで読んだ(あるいは観た)メロドラマの中で、最高のものだと思う。物語りは強い緊張感を以て二転三転し、読者に息もつかせない。ネタバレは一切避けたいのでこれ以上書かないが、深い満足を以て読み終えたことを記しておきたいと思う。確かにメロドラマではあるけれど、それにしても、いまでも優れた小説家はいくらも居るだろうが、さすがにこれほどの構成、この文章が書ける作家はひとりもいないだろう。別にそれは恥ではない。十蘭が凄すぎるのである。
 どうも、宮崎駿ならアニメにできるかも知れないとふと思うが、宮崎駿でも通俗になっちゃうだろうな。澁澤龍彦が指摘していた筈だが、久生十蘭には(意外にも)「純愛」の作品系列があるのであり、煮ても焼いても喰えない複雑な十蘭の心の奥に、無垢の魂が宿っていることは忘れてはなるまい。この人は、その内に町人の洒脱と武士の高貴を同居せしめていた、不思議で稀有なスタイリストであった。

いやあ、キリンカップの決勝ボスニア・ヘルツェゴビナ戦、おもしろかったなあ。僕はいつもは日本代表戦、前半の途中で見止めてしまうのだが、今日は最後まで観た。途中までは野獣どうしの闘いという感じで、緊張感がすごかった。日本が二点目を取られてからは、明らかに相手は余裕をもってやっていて、最後まで二度と本気にさせることはできなかった。そこいらが、選手たちが後でとても悔しそうだった理由のひとつであるようにも思われた。ホント、悔しくて顔が歪んでいましたよ。いつも、負けてもこんなに悔しそうではないよね。
 しかし、西洋人ってのはこういうとき、肉食獣みたいな感じですね。ファウルも、調子に乗るなみたいなやつをやってくることがある。すごい迫力だった。しかし思うのだが、思想とかでもそうだけれど、正面から体力勝負で挑んでいっては、日本がワールドカップで優勝とか絶対にないと思うな。西洋人はそれをよくわかっていると思う。西洋人がどうしても100m走でアフリカ人に勝てないように。だから、フィジカルで当たり負けしないようにとかはわかるけれど、結局永遠の反省点で、負ければ言い訳にすぎないと思う。何か日本の得意な点とかないのかな。日本のサッカーも強くなったと思うけれど、それですら世界ランキングが50位台なのだから。
 しかし、日本代表をじっくり見てみて、サムライと云いたくなるような面構えをもった選手はひとりもいないね。まあいまやそんなものなのであろうが。自分もおっさんながら、面構えには気をつけよう。だいたい、禅僧なども顔でわかるよな。