『エラスムス=トマス・モア往復書簡』

雨。のち曇。
音楽を聴く。■バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第六番BWV1019(ラインハルト・ゲーベル、ムジカ・アンティクヮ・ケルン、参照)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番K.421(ターリヒQ、参照)。■ブラームス:二つのラプソディop.79(スティーヴン・コヴァセヴィチ、参照)。第一番がいいな。曲のダイナミックなところがよく出ている。コヴァセヴィチはアルゲリッチとの間に娘がいるのですね。写真家だって。

エラスムス=トマス・モア往復書簡』読了。沓掛良彦・高田康成訳。こういう立派な書物が、広く読まれますように。

エラスムス=トマス・モア往復書簡 (岩波文庫)

エラスムス=トマス・モア往復書簡 (岩波文庫)


言論の自由について再論 - 内田樹の研究室
僕は内田樹本人には特に興味はないのだが、しかし、どうして内田樹の言っていることはこうもまともなのか。このリンク先の文章は、自分にはまったく正しいと思われる。そして、これはこの文章を読む前には、思ってもみなかった観点だった。内田樹は意表を突いたことを言って人気を博しているという人がいる。僕は、奇を衒ったようなことを云うときの内田樹は、正直言ってどうでもよい。しかし、この人にはこの人しか気づかないことが多数あるし、そうしたときの内田樹は貴重である。そしてまたもやこの人も、ある種の学者・知識人たちから猛烈に評判が悪い。彼らの言うことを聴くと、内田樹には専門性が欠如しているということらしい。敢て云えば、内田樹は日本に特殊であるところの、「評論家」という人種の最後の生き残りであるような気がする。これは最近ではネガティヴな connotation をもった語である。日本はかつてはジェネラリストの多い国であったが、今や日本ですら専門家たちの時代になったようだ。今の政治を見ても、その観を強くする。
 今日国会に伊勢崎賢治さんが参考人として呼ばれていた。テレビでその発言の(恐らくほんの)一部を聴いたが、現在の PKO 活動は停戦合意が破られた場合、PKO 部隊は撤退するのではなく、即座に鎮圧行動に入るらしい。つまり即座に戦闘行為に入るということである。もし本気で自衛隊PKO 活動に参加するなら、戦闘行為は避けて通れないということだ。そうでなければ、邪魔だから来てくれるなということである。それならそれで国民の合意と覚悟が必要であるだろうし、政府の想定はまったく非現実的であるということだ。本当はもっと発言が聞きたかったのだが、某「アカの」テレビ番組でも一部しか放送しなかったのは残念だった。まったく、政府は国民を見くびって、嘘をつくのはやめて欲しい。
 それにしても、報道の自由すらこんなに簡単になくなってくるとは、思いもよらなかったことである(今回の有事法制にも、報道機関への「協力」要請の条項が確実に入っているそうだ)。今の政府・与党を支持するという人たちの、その考えがわからない。というか、そういう人たちは、戦争になったらなったで虎の威を借りて威張る、あのお調子者たちに自分がならないという覚悟があるのだろうか。正直言って、そういう人たちとまで対話の可能性がもてるのか、甚だ自信がない。もう政治云々に関しては、一切沈黙した方がいいのかも知れない。
 ウチで取っている新聞は朝日新聞で、自分は呆れきって殆ど読みもしなかったのだが、最近はしっかり目を通している。すさまじいまでにバッシングされてみて、多少は覚悟が決まってきたかのような記事が明らかに増えている。例の「新聞に圧力をかけろ」発言では、読売新聞ですら社説で批判的であったらしい。それにしても自民党は…敢て云うが、恥ずかしいとしか云いようがない。日本はどこの軍事政権下の三等国ですかと、そう思わない方がどうかしている。国辱とはこのことだ。