パスカル『パンセ(中)』

日曜日。晴。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲ピアノ協奏曲第九番 K.271(内田光子、テイト、参照)。これはモーツァルトがすごく気合を入れて書いた曲。内田光子の演奏は、そのことがよくわかる立派なものである。■テレマン:序曲ト長調 TWV55-G7 (ペイエ、コレギウム・インストゥルメンターレ・ブリュヘンセ、参照)。■バルトーク:ピアノ協奏曲第二番 Sz.95 (コヴァセヴィチ、デイヴィス、参照)。二十世紀の古典、バルトーク。素晴らしい。

パスカル『パンセ(中)』読了。塩川徹也訳。心底うんざりさせられた。言い方は悪いかも知れないが、パスカルは異常に頭のよい中二病者に過ぎない。パスカルがしばしば非難しているモンテーニュの方が、よほど大人である。パスカルキリスト教を擁護するが、自分では知的なつもりなのかも知れないけれども、屁理屈のオンパレードではないか。ただ自分の信仰するのがキリスト教だから、キリスト教が真実であると言っているに過ぎない。例えばパスカルは、キリスト教の真実性として奇蹟を大変に重要視する。「どうして処女は子供を産むことができないというのか。雌鶏は雄鶏なしに卵を産むではないか。」(p.600)バカバカしいが、まあこれくらいなら許してもいい。しかし「たとえ異端者たちに奇蹟が起こっても、彼らの役には立たないだろう。なぜなら教会が、あらかじめ信仰のありかを示す奇蹟の権威に立脚して、彼らには真の信仰がないと私たちに告げるのだから。」(p.612)つまりは、自分たちの奇蹟はキリスト教の正しさを告げるが、異端者たちの奇蹟は彼らの宗教の正しさを示さないと言っているのだ。こういうのが果たして論証と言えるのか。さらに、パスカルキリスト教以外の宗教はすべて偽りであるとし、宗教的寛容のかけらもない。こういう人物が、キリスト教擁護の宝石だと言えるのであろうか。自分には疑問である。
 とにかく、パスカルという人は、我々流に云うと性格が悪い。自分以外の人間は、頭が悪く見えて仕方がなかったのであろう。こういう本が古典なのだから、むずかしいものである。

パンセ(中) (岩波文庫)

パンセ(中) (岩波文庫)

学生の時にブランシュヴィック版を読んだ際は、そこまで思わなかった気がするのだが。しかし、パスカルの発想の極端さに疑問を持ったことは覚えている。版がちがうせいもあって、印象がさらに強められたのかも知れない。