シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

かなり強い雨
音楽を聴く。■シュニトケ:ヴァイオリン協奏曲第三番(クレーメル、クリストフ・エッシェンバッハ参照)。シリアスな現代曲だが、聴きづらいということはない。むしろ傑作の部類に入るであろう。しかし、この曲を聴いていると、二十世紀音楽におけるショスタコーヴィチの位置というものを考えさせられる。同じソ連の作曲家ということで、シュニトケショスタコーヴィチの影響を受けているかどうかは知らないが、ありそうなことに思えるし、この陰鬱さと音楽としての充実という点で、類似性を感じずにはいない。ショスタコーヴィチはもちろんいまだに調性音楽の枠組みの中で作曲したのであるが、その保守的であるはずの音楽が、如何に二十世紀という時代を写しとっていることか。敢て云えば、二十世紀を代表する作曲家はブーレーズクセナキス、あるいはケージではなくて、ショスタコーヴィチではないかという疑問を捨てきれないのである(まあ、他にバルトークという天才も居るので、なかなかむずかしいが)。少なくとも、ショスタコーヴィチの系列というものがあるのではないか。いかがであろう? ■シューベルト:ピアノ・ソナタ第二十一番D960(内田光子参照)。これ、変な曲だと云ったら叱られるだろうか。第一楽章は至高の名曲だと云っていいだろう。特に冒頭の主題は限りなく地上から遠い。これが異常なので、シューベルトは曲作りに苦労しているところも感じられるが、特別な曲であると云うのは動くまい。第二楽章も深いが、これはシューベルトならばさほど書くのにむずかしくなかっただろう。第三楽章は短いけれど、自分としてはこういう感じのシューベルトがいちばん好きである。しかし終楽章は明らかに変で、恐らくシューベルトの中でももっとも空疎な音楽なのではないか。たぶん、作曲してはいけない精神状態のときに、作曲していると思う。正直言って、自分はこの楽章に意識をフォーカスするのを躊躇う。精神衛生上、よくないことがわかっているからである。内田光子の演奏は、曲の奇怪さをよく表現しきったもの。深いところはどこまでも深く、空疎は空疎に。

1579夜『ピアノを弾く哲学者』フランソワ・ヌーデルマン|松岡正剛の千夜千冊
松岡正剛が音楽について書いているが、ここには自分の琴線に触れるところが殆どない。この人は、本当に音楽が好きなのだろうか。そして、これは言いにくいことだが、音楽がちゃんとわかっているのだろうか。まあ、「音楽がわかるって、なに」と云われると、なかなか答えにくいけれども、文学や哲学と同じで、デタラメはデタラメにすぎない。ここではいかにも尤もらしいことは云われているけれど、松岡正剛は膨大な読書量で知られるが、音楽についてもどれくらい量を聴いているのか。僕は、勝手に断定するが、彼は音楽について書かれたものはそこそこ読んでいるだろうけれども、音楽そのものは、本や絵画ほど身を入れて付き合っていないと思う。まあ、自分の未熟さを証明しているだけかも知れないが、そう感じられてしまうのである。
「バルトの答えはこんなふうだ。好きな音楽はヘンデルグレン・グールド(980夜)、ロマン派音楽のすべて‥‥。嫌いなほうはサティ、バルトーク、ヴィバルディ、ルネサンスの舞踏組曲、児童合唱団、ルビンシュタインのピアノ、ショパンの協奏曲‥‥。まるで『いつわり』を吐露しているかのようだ。」
そうだろうか。僕にはバルトが例えばグールドを愛し、ルービンシュタインを嫌うのがまったくよくわかるが(もちろん、自分の好みはバルトとまったくちがうにもかかわらず)。何が「いつわり」なのだろうか。これでは、彼のバルトの理解すら、疑問を持たずにはいられなくなるのだが…。ちなみに、松岡正剛はよく知っているであろう、浅田彰の「シューマンを弾くバルト」というエッセイは、自分の賛嘆して已まない文章である。これでも読んで、顔を洗って出直して来いとすら言いたい。
 蛇足だが、自分はかつて、グールドを愛し、ロマン派音楽のすべてを愛してきたが、最近では双方とも少し遠のいている。そして、ルービンシュタインも時々聴くようになり、砂糖菓子のように甘くて幼稚な、ショパンのコンチェルトに陶酔もする。大作曲家も好きだが、二流三流の作曲家を聴く楽しみを知った。CD になるような現代曲は、ほぼどれもおもしろい。そんなところだろうか。
 しかし、つい「文学や哲学と同じで」って書いて、これはまずかったね。これは自分に返ってくる。僕には「文学」も「哲学」も、充分わかっているとは云えないかも知れないな。哲学はカントから出られません。頭が悪いので、「フランス現代思想」には(よく読んできたけれど)苦しめられたし、現代主流の分析哲学の系統は、あそこには鉱脈はないと勝手に断定している始末。文学は、これも好きなんだけれど、自分と同じように感じている人が殆どいない。文芸評論をやっていた頃の福田和也さんには、とても共感したけれど。露伴舞城王太郎の両方を正確に評価できるというのは、まったく素晴らしかった。並び称されていた村上春樹村上龍を、春樹を決定的に評価し、龍を切って捨てたのもさすがだった(僕は、どちらかと言うと龍をよく読んでいたのだけれど、その判断には敬服します)。福田さんは文芸評論を書かなくなってしまったので、今でも文学通はいっぱいいるけれど、そういうのの文章を読んでいると、自分がバカなようで落ち込んでくる。まあ、文学なんて好きに読めばという考え方もあろうが、それでもある程度の価値判断の普遍性はあると思うので、そんな呑気なことも言っていられないしね。目指す境地は、高橋源一郎さんの、「世界に小説以上におもしろいものはない」というやつ。たぶんこれだと思う。

シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』読了。田辺保訳。訳者は解説でヴェイユを「聖女」と呼ぶことを拒否し、「ひたすらに『真理』が純粋に求められているところでは、人間的な基準によっては到底評価しきれない何かしら根源と直結した『正しさ』が個々の具体的な行動をえらびとって行くのである」(p.261)などと中二病的ポエムを語っているが、自分にはヴェイユは、まさしくキリスト教的聖女であったようにしか見えない。彼女は真理のために辛い工場労働に自ら飛び込んでいった(もちろんそうした側面もあっただろうが)というよりは、彼女の脳裏にあったのは、むしろ例えばアッシジの聖フランチェスコの姿であったのではないだろうか。彼女の根底にあったのは、結局神の存在だったのだと思う。そして、一種の天才的な(宗教的なと云ってもいい)「共感能力」。それにしても、彼女は「感覚だけで生きている人々は、物質的にも、精神的にも、仕事をし、創造する人たちにくらべますと、寄生虫みたいなものにすぎません」(p.243)といい、その「感覚だけで生きている」人間として、アンドレ・ジイドの名を挙げているが、彼女の神への愛は、こうした人々には向けられなかったと思しい。僕は自分がそのようなジイド的寄生虫に近いと思っているので、例えば彼女の前に立ったら、彼女から決してよくは思われなかったことであろう。ヴェイユはやはり聖女であり、工場労働のただ中にあっても、本質的に堕落することはなかった。彼女の存在がある種の生きづらい人たちに勇気を与えるとすれば、それは根源的な彼女の高潔さにあるものと思われる。

工場日記 (ちくま学芸文庫)

工場日記 (ちくま学芸文庫)


http://homepage2.nifty.com/eman/index.html
久しぶりに EMAN さんの HP を覗いたが、そのわかりやすさに感動する。特に、一度他の教科書を読んだことがあると、それがよくわかるのではないか(何も物理を知らずにここで勉強するのは、ちょっとむずかしいかも知れない)。この HP から既に二冊が書籍化されているが、それも納得である。本の方も、自分は好きだ。わかりやすく書けるというのも、才能ですね。僕もやってみたいのだが、とてもこんなに上手く書けない。もうすぐ量子力学の本も出るらしいから、楽しみである。