橋川文三『ナショナリズム』/佐藤正午『小説家の四季』

晴。
このところ睡眠時間が長く、かつ奇妙な夢を見る。どうも夢の指し示している方向は、ハイテクノロジー化と田舎化の混淆のようでもある。いずれも普段は取り立てて意識していないし、別に画期的な方向性とも思われない。単なる補償かも知れない。いずれにせよ、まだはっきりとはわからないけれども。

蒸し暑い。昼から県営プール。肉屋。スーパー。
先日ふと稲葉振一郎氏のツイッターのつぶやきを多少見ていて、ここにほぼ RT で展開されている論点は確かに「センスのいい」少数者(9:1の1のようなもの)による「正しい」意見の陳列という趣であり、これには啓蒙的な意図があるし、圧倒的な少数者によるプロテストなのではあったが、これらですら日本の1割(というのはテキトーですが)もある「統計的」レヴェルの言説なのであるなあとつくづく思わされた。そして、その9:1の9をバカにすること夥しく、日本にはかしこい人たちがいっぱい居るわいと、安堵なのか何なのか、気分が暗くなった。皆んな「正しい」のだが、「正しい受け売り」ばかりである。これこそが文明の進歩なのであろう。もはや、非常に多くのことが「統計的」レヴェルで考察されるしかない。我々自身もまた、統計的存在になっている(もちろんそこには、自分も含まれている)。
 かしこいということも、正規分布の端の方(つまりは偏差値が高い)ということに過ぎない。もはや、それはいいとか悪いとかいう段階を過ぎている。

橋川文三ナショナリズム』読了。いまや自分のような平凡人でも「国家」について考えざるを得ない時代になって、本書のような優れた書物を読むことは大きいことであったが、それにしても己の無知はどうしようもないことを改めて痛感した。こつこつと勉強するしかないのであろうが、それにしてもという感じである。現在、世界は先に経済によって「統一」されつつあり、その必然的帰結として、近代的なネーション=ステートに対してどのような態度を取るかというのが、市民的レヴェルにおいてさえ必須になってしまっている。しかし、我々のような無知な人間に、どうせよというのかというのが自分の偽らざる実感である。例えば、国家は揚棄されるべきであるのか。EU などはそれに対するひとつの回答であろうが、EU は国家を廃したわけではないし、世界がひとつの国家になるとして、それがひとつの全体主義国家のヘゲモニーではあり得ないと誰が断言できようか。例えば、ドルと英語による単一全体主義国家…。では、ネーション=ステートを積極的に擁護していくべきなのか。しかしそれが、国家たちの平和共存を可能にするかはわからない。いまや、ネーション=ステートが土台から揺らいできているがゆえに、どの国でもナショナリズムが非常に強くなってきている。本書との接続地点はここである。このナショナリズムの強化を、積極的に擁護していくべきなのであろうか。本当に自分にはわからない。
 もちろん、ここまでに書いたことは現在にあってははなはだ凡庸な認識である。多少気の利いた人間なら、こんなことはいくらでも言えるだろう。「正しい」回答も既に出ているのかも知れない。しかし、自分にはどうしていいか、よくわからない。そこが、自分の無知のどうしようもなさというしかない。
 本書については何も書かなかったが、まずは必読書のレヴェルである。薄い本でもあり、こういう本が文庫で手軽に読めるというのはありがたい気がする。

ちなみに、柄谷行人の近年の一連の仕事は、上のような自分の認識をもたらした源泉のひとつであるが、それに対する柄谷の(万能の)回答である「アソシエーション」というのが、自分にはよくわからないのだ。柄谷はネーション=ステートをどうしたいのか。誰か、自分のような頭の悪い人間に、わかりやすく教えてもらえないかとすら思ってしまう。それについては、先日も書いた。

図書館から借りてきた、佐藤正午『小説家の四季』読了。こういうのは一気読みする本ではないようだが、結局一気読みしてしまった。いつもながら、軽くていい文章で書かれたエッセイたちだと思う。佐藤さんも既に還暦を超えたか。11年前と文章は変っていないが、佐藤さんもだいぶくたびれてきた。ユーモアにくるまれてはいるけれど、なさけない話が増えている。しかし、小説をこつこつ書きながら、こう淡々と歳をとっていくことが可能なのだなあ。そこには感心する。たぶん、佐藤さんは淡々と死んでいけるにちがいない。そういうところが好きな読者も居るのではないか。
小説家の四季

小説家の四季