村上春樹『海辺のカフカ(下)』/酒井忠康『覚書 幕末・明治の美術』

晴。
村上春樹海辺のカフカ(下)』読了。引き込まれて一気に読み終える。最近これほど没入した小説はない。やはり、自分はアンチ村上春樹にはなれないなと思う。ただ、本書はカフカ少年とナカタさんのエピソードが交互に描かれているが、カフカ少年のエピソードの方にはまったく惹かれなかったとは言っておこう。ナカタさんのそれの方には大変に惹かれた。星野青年も好きだった。しかし、ラストはどうも納得がいかない。伏線を繋げようとして、間違った着地点に至っているような気がする。本書の主人公のカフカ少年には、魅力的なところがまったくない。大島さんの芝居がかったセリフには失笑させられるし、佐伯さんの性格ははっきりせず、影が薄い。実際、「影が薄い」と形容されているナカタさんが、本書のキャラクターの中で一番存在感があるのではないか。

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ』の中で言及されている、シューベルトのピアノ・ソナタ第十七番ニ長調D.850を聴いてみる。小説の中で、この曲はこんな風に言及されている。

僕が運転をしながらよくシューベルトを聴くのはそのためだ。さっきも言ったように、それがほとんどの場合、なんらかの意味で不完全な演奏だからだ。質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。これしかないというような完璧な音楽と完璧な演奏を聴きながら運転をしたら、目を閉じてそのまま死んでしまいたくなるかもしれない。でも僕はニ長調ソナタに耳を傾け、そこに人の営みの限界を聞きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる。… (文庫版上巻p.233)

なるほど、そういう感じに聴けないこともない。この他には「退屈な曲だ」というような言及もあるが、自分の聞いた感じは多少ちがう。自分には、この曲はとても奇妙な感じがする。何か、シューベルトの「やる気のない」感じが伝わってくるような気がする。シューベルトは若くして亡くなったが、ベートーヴェンを尊敬していて、資質はまったくちがうのに、ベートーヴェンのような作曲家になりたいと大変に努力した。だから、気負った作品も多いのだが、この曲は、何となくどうでもいいやというような感じで作曲したかのようである。しかし、却ってシューベルトらしさは出てしまう。そのあたりが、奇妙に感じる原因なのかも知れない。
 なお、自分が聴いたのは、クリフォード・カーゾンの1963年の録音。シブい演奏だと思う。なお、You Tube にもいろんな演奏がアップされている(参照)。

Clifford Curzon Edition: Complete Recordings

Clifford Curzon Edition: Complete Recordings


酒井忠康『覚書 幕末・明治の美術』読了。


明日から何日か、観光旅行に行ってきます。