内田樹『他者と死者』/高橋源一郎『一〇一年目の孤独』

雨。
図書館から借りてきた、内田樹『他者と死者』読了。副題「ラカンによるレヴィナス」。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

図書館から借りてきた、高橋源一郎『一〇一年目の孤独』読了。副題「希望の場所を求めて」。深く感銘を受けた。しかし、本書を何と説明したものか。ルポルタージュか。ちょっとちがうような気がする。ダッチワイフを作っている会社の社長へのインタビューがあるからと云って、間違ってはいけない。源一郎さんの中では、ダウン症の子供たちの描く素晴らしい絵画と、それは愛という点で、矛盾なく同居しているのだ。それは小説家という観点から見ると、極めて根源的な態度である。本書で扱われていること。障害者たちのやっている劇団の、敢て哲学的と云いたいラディカルさ。高度資本主義の中で、自動化も高度化も目指さない「電気の哲学者=発明家」(これは文明化を憎むラッダイトたちと何の関係もない。この人、藤村靖之さんは、大袈裟な「思想」を持たないのである。フットワークは軽く、科学者だから、何でも自分で調べ、自分であっさり作ってしまうのだ)。小学校なのに、学年も教科も宿題も試験もチャイムも「先生」も廊下もない、不思議な学校(こんな学校が日本にあるとは! 子供たちは、料理を作ったり昔の暮しを実体験してみたりする。これでは、「普通」の学校へ戻ったら困ると思うでしょう。でも、そうして戻ってみると、彼ら彼女らの成績は、だいたい上位の一割に入るそうである。どうしてそんなことになるのか。どうやら、この学校でいっぱい頭を使うので、「勉強ってこんなに簡単なの?」ってなるそうなんだって)。イギリスの子供のためのホスピスホスピスだから、子供たちはここで死んでいく。その立派な態度。人間の尊厳)。おじいやおばあが原発反対デモを三〇年やってきている島。これらには何かある。それも大切なものが。我々はもはや多くを失ってしまい、震災以後日本のダメさはますます痛感させられるところであるが、まだこういう人たちがいるのだなと思う。そうして、ひどく悪口を言われる源一郎さんのような人が、文学者としてまだ存在するということ。これはかすかな希望なのかも知れない。
県図書館。