村井章介『増補 中世日本の内と外』/ヴァルター・グロピウス『建築はどうあるべきか』/土屋恵一郎『正義論/自由論』

曇のち雨。急にまた寒くなる。

村井章介『増補 中世日本の内と外』読了。まだ中世あたりだと、国の周辺部は国家への帰属が曖昧なのがむしろ普通かと思っていたのだが、意外とはっきりしているのだと驚いた。例えば十五世紀、済州島対馬は似たような関係にあり、事実上はどちらも朝鮮と日本の混交的なのだが、名目的にはやはり済州島は朝鮮、対馬は日本への帰属が意識されているのである。それが結局、現代に至るまで領土を規定するのだ。国家の周縁というのは、考えてみればなかなか問題含みである。おそらく古代から、そんなに曖昧なものではなかったような気がする。
 また、元寇で日本が大したことはなかったのは、大陸で高麗がモンゴルに頑強に抵抗したからというのも面白い。それとともに、日本はモンゴルから見ればひどく周縁部で、兵站が延びきっていたのも原因だとか。もちろん日本が海を隔てていたというのも、そうには違いない。

ヴァルター・グロピウス『建築はどうあるべきか』読了。訳者による後書きが、七〇頁にも及ぶ力作。
建築はどうあるべきか: デモクラシーのアポロン (ちくま学芸文庫)

建築はどうあるべきか: デモクラシーのアポロン (ちくま学芸文庫)

土屋恵一郎『正義論/自由論』読了。新たな問題にたくさん打ち当った。著者は能う限り根底から思考しようと試みていて、その「原理的」思考のため、J・S・ミルやロックや、何よりもロールズが参照される。ただ思うのだが、我々は徹底的にロジカルに議論を詰めるべきだが、「力」の支配にも盲目的であってはなるまい。「力」があるからこそ、論理が受け入れられる、或いは支配的になるということはあるのだ。本書はその「力」については、(わざとであろうが)考慮から外れがちな部分もあると思う。まあそうすると、身も蓋もない議論にはなってしまうから、仕方のないことではあろうが。
正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)


中沢新一『森のバロック』を読み返す。第五章「粘菌とオートポイエーシス」には驚嘆。こんなことが書いてあったのか! ここで中沢新一の言っている「マンダラ」は、例えば真言密教におけるそれとはだいぶイメージがちがう。生命の原理としての種々の「マンダラ」、そして、生命(また死)を超え、到達することは不可能な全体運動をあらわす「ニルヴァーナ・マンダラ」。
 また、南方熊楠にイニシエーションを与えたのが、生死の彼岸にある、まさしく「森」そのものだったとは。それが彼の世界を豁いたのだ。