飯倉章『黄禍論と日本人』/ソログープ『かくれんぼ・毒の園』

晴。
f:id:obelisk2:20130413163320j:image:w250:right飯倉章『黄禍論と日本人』読了。本書は、資料として欧米のジャーナリズム文献を使い、欧米における近代日本(人)の表象を扱ったものだと云えるだろうか。特にそれを、「黄禍」の概念を中心に行なっている。時代は、日清戦争から、一九二四年のアメリカでの排日移民法の成立までである。「黄禍」という語が広まったのは、人種差別主義者であったドイツ皇帝ヴィルヘルム二世による、有名な図像(右上図)が現れてからのことであった。意外なことに、この図は、欧米ではほとんど嘲笑の対象であったらしい。しかし、それはともかく、本書に収録されているその他の多くの資料を見ると、日本人のステロタイプな蔑視的表現が延々と続き、日本人にとってはあまり気持ちのよいものではない。逆に言えば、明治に日本が開国して以降、日本人(引いてはアジア人)の欧米におけるイメージを変えていくのに、大変な労力と時間、そして少なからぬ人間の命までを必要としたことが偲ばれる。もちろん今でも、西洋人の間では、有色人種に対して蔑視意識が払拭されたわけではないだろう。しかしそれを云えば、日本人も韓国・朝鮮人や中国人に対し、そのような蔑視意識がなくなったわけではないことと、それは類似である。かかる意識は、そう簡単にはなくなるものではないし、新たに生じたりもするものなのだ。
 本書は学術書の体裁を崩さず、冷静な筆致で面倒な問題を腑分けしている。かかる態度は、心強いものだ。そういえば、サイードの『オリエンタリズム』では、「黄禍」の問題は取り上げられていたろうか。あの本は叙述の中心がイスラムに関してだから、なかったかも知れない。そこいらは、我々が自分で考えよということだ。

ソログープ『かくれんぼ・毒の園』読了。短篇集。新版。中山省三郎訳は、旧版とまったく同じであるようだ。あと、昇曙夢訳の三篇が追加されたことになる。どれも濃厚に死の匂いが漂った作品。一種の幻想譚でもあろう。
 「かくれんぼ」と「光と影」は、以前読んだのをよく覚えていた。どこか狂気じみた幻想性が印象的な作品である。
かくれんぼ・毒の園 他五篇 (岩波文庫)

かくれんぼ・毒の園 他五篇 (岩波文庫)

中沢新一『森のバロック』を読み返す。