ねこあつめがやることなくなってつまらないの事

曇。
何か昨日書いたことか、書き方か、間違っているような気がする。今朝起きて鏡を見たら、あんまりいい顔をしていない。
音楽を聴く。■バッハ:ハープシコード協奏曲第五番BWV1056、二台のハープシコードのための協奏曲BWV1061(デイヴィット・モロニー他、参照)。段々このCDの評価が自分の中で高くなってきた。
河合隼雄先生は自分では殆ど書いておられないけれど、先生はクラシック音楽を(たぶん心の底から)愛しておられたようである。先生の場合がどうだったか知らないが、自分はクラシック音楽を聴いていて、殆ど西洋ということを意識しない。結局クラシック音楽の語法はある意味では世界を「征服」してしまったのだが、これはどう考えるべきなのか。確かに、クラシック音楽は数学的な理論に基礎づけられているところはある(例えばピタゴラス・コンマの存在は、古代ギリシア時代から知られていた)。ただ、近代和声理論は恐ろしく精緻に練り上げられているが、この起源は西洋にローカルなものだ。うーん、これ以上のことはまだ考えが及ばない。そう云えば中沢新一さんは、半分冗談だとは思うが「バッハの犯罪」と言っておられたな。もちろん、バッハがいなければ、モーツァルトのあの自由な転調はあり得なかったし、ワーグナーの無限旋律もあり得なかった。シェーンベルクの齎した調性の解体も、その延長線上にあるし。しかし、多数存在した調律法が一掃され、平均律だけが残ったのは、「バッハの犯罪」と云うこともできるかも知れない。(なお、バッハの「平均律」クラヴィーア曲集の「平均律」は、誤訳である。英語なら well-tempered というのは、「平均律」ではない。)まあ、古楽は復活したのではあるが。

うどん「恵那」にて昼食。恵那ころ蕎麦。
母がぷんぷん怒って帰ってきた。母はじつは頼まれて半分公的な「○○委員」というやつをやっているのだが、それはマイナーなやつで公的なお金は出ず、けれども地道な市民的活動をしてきたものだった。しかし市長が替り、金を出せというとホイホイ出す若い市長になると(市民の言うことをよく聞く市長なんだそうである)、それにも金が出るようになって、何だか変な雰囲気になってきた。「遊び」の話が多くなってきたのである。もちろん「遊び」と言っても名目は「研修」であって、市民の税金を使って盆踊りの「研修」などに行くのだ。母はそういうのは毛嫌いしてるので、まあ参加せずということで済んでいたのだが、その「○○委員」の本来の仕事まで、変質してきたのである。金が出ない頃はマジメにやっていたのが、その頃のやり方が当り前だと思って活動している古参の委員に対して、新しい委員の言うことには「でしゃばりすぎ」だとかなんとか、これ見よがしに陰口が言われるようになってきたのだ。ははあ、そういうことってのは、やはりあるものなのだなあ。母はたぶん今でもぷりぷりしていると思う。
 じつは母は以前、これはよく知られている民生委員をやっていて、その仕事ぶりがマジメだったので請われてその「○○委員」になったのだった。民生委員もマジメにやればかなり大変で、やることはいくらでもあるのだが、割とメジャーな役職で(もちろん税金から)お金も出るし、ちょっとしたステイタスと勘違いするバカがいたりして(やりたがる人とか、なったら離さない人とかが居る)、なかなか厄介だった。これは公然たる秘密だが、民生委員も遊びに他ならない「研修旅行」が度々あるし、飲み会もかなりの頻度で行われる。中にはそうした時だけ出てきて、地域での仕事をしないでいる委員などもいたりして、どうしてあの町内はアレにずっとやらせておくのだろうと、不思議がられるようなものである。テレビで餓死者のニュースが流れたりすると、もしかしてそんな奴が民生委員をやっていたのではないかと、つい思われたりするのだ。これひとつでも、市民的成熟なんてのは、まだまだ当分先の話であることがわかる。

さっきまで「クローズアップ現代」で渡辺謙へのインタヴューをやっていた。「王様と私」で渡辺謙は賞を取れなかったのだが、ブロードウェイの「一流」ミュージカルで主役級をやっていて、さすがは渡辺謙と思うかも知れない。しかし内容を見てみるとアジア人に対する偏見に満ち満ちた下らない演劇にしか思えず、ウンザリした。また、偉そうな(実際に偉いらしいが)日本人のオバハンが出てきて、最近の(日本人の)若い人が内向きなのは残念だとか正しいことを言っていて、またまたウンザリした。番組では色々今の他の人気ブロードウェイ・ミュージカルについても紹介があったが、どれもこれも子供だましとしか思えず、ますますウンザリした。いまさら「アラジン」とか「スパイダーマン」とか、正気かね? 日本の若い人の内向きなのを渡辺謙も残念がっていて、散々下らない役(としか自分には思われない)を誠実にこなしてきた、好ましい面構えの男の発言として心に残らざるを得なかったが、何だか悲しくなってきた。何が悲しゅうて、渡辺謙ほどの男がこんなことをしなければならないのか? まあ、こんなことは渡辺謙ならば笑って済ますにちがいないが、日本人もナメられたものである。まったく、ああいうのを見ていると国粋主義者にならざるを得ないではないか。しかし、どうして今の日本人はアメリカの方ばかり見るのだ? それも、レヴェルの低いところにおけるアメリカを。学問などでは日本など到底アメリカの相手になどならないが(その意味で、残念ながらノーベル賞は公正でないこともない)、日本のように長い伝統をもった国が、どうして芸術レヴェルで、まだあまりにも若いアメリカの下を行っているのか? って、ホントに国粋主義者になっているな。今の日本文化には残念ながら、伝統もないし若い活力もない。というのが極論にならないように、何とかしてくれよ、マッタク。ああ、くさくさする。
 結局、まず自分の低レヴェルを何とかしろというところに落ち着くのだよなあ。どっかに凄いのがいて、何とかしてくれるとか、ないの? アンテナの狭い自分が知らないだけとかさあ。こんなの、信じられんわ。ホント。

河出文庫新刊の『ドゥルーズ・コレクション1』を読む。不思議な感覚。ベルクソンは学生の頃にかなり感激して読んだし、三十代になっても新訳の度に読んできたが、ドゥルーズを読んでいると、果たしてベルクソンは本当にこんな風に読めるのかというような、奇妙な驚きを感じる。それと共に、ドゥルーズはこんなことを書いていたのか…というような。本書の文章は恐らくすべて一度は目を通している筈だが、これまではたぶん何にも読めていなかったにちがいない。というか、今だって読めていないが、何だ、これまで目を通してきた解説本からのイメージと、どうもちがうなという感覚。自分勝手に読んでいる証拠だろうが、取り敢えずこうならないと話にならない。今日はもう疲れたが、続きが楽しみだ。
 それから、ガタリも合わせた二人へのインタヴューも収録されているが、ガタリという人はひどく魅力的な感じがするな。セルジュ・ルクレールとかいうバカもいるが、クラストルはまたさすがではないか。ガタリも読みたくなってきた。

文系のどうでもいい学者のブログは、タイトルがキモい。大抵、中身はもっとキモかったりする。理系のカスで本当によかった(理系ってのは、文系よりは実力がはっきりわかるよね。そこは気持ちがいい。実際、文系の教師の不愉快な思い出は幾つかあるが、物理の先生方は、性格破綻者もいるけれど、はっきり言ってマシでした。どっちかと云えば、自分の方に問題があったな)。また何様でスミマセン。