NHKスペシャル「ある、ひきこもりの死」

晴。

スーパー。

ごろごろ。

ツイッターを見ていると俺って無知な時代遅れで老害だなって痛感するな。

プラネタリー・バウンダリーの問題は思っていたより遥かにむずかしいな。まず、プラネタリー・バウンダリーの問題は存在するかというのがある。そして、仮に存在したとして、それは資本主義体制下で解決可能なのかということがある。でも、これではまだ考察が粗すぎるな。
 プラネタリー・バウンダリーの問題は一見我々の身近な生活からあまりにも遠いようである。しかしじつは逆だ。全世界的な破滅が問題になっているのだから、我々の人生・生活の問題そのものである。困ったものだな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%BC
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h29/pdf/gaiyou.pdf
杞憂というのは空が落ちてくることを心配した愚か者の話だったと思うが、いまは実際に空が落ちてくることを想定しないといけない時代になってしまった。

録画しておいた、NHKスペシャル「ある、ひきこもりの死」を見る。
20201221214002
つらくて悲しいドキュメンタリーだった。わたしもいまでは、ネット以外にあまり世間と接触していない(わたしはネットは現在の世間だと思う)ので、まあひきこもりみたいなものだが、なので「ひきこもり死」の気持ちも少しはわかるところがあると思っているが、とてもそこまでいっていないと思った。わたしも老父母が先に死んだら(どうなるかはわからないけれど、もちろんわたしが先に死んではいけない)、あんな風になるのだろうか。
 最初に出てきたひきこもり死の人は、死後弟さんが調べていくうちに、じつは必死で生きようとしていたことが判明する。しかし、それなのに、この番組の事例では、この人だけでなく、仕事にうまく適応できなかったケースが幾つもあった。そして、一切の希望を失ってしまったのか、「生きる気力」というものがなくなってしまい、支援すら拒むようになってしまう。いや、そんな風にまとめてしまってよいものかわからないが、ここにあった「生きていてもちっとも面白くない、働いて働いて、頭の中はからっぽ」という手記の気持ちが、理解できる人は少なくないのではないか。そこで、自殺する人もいるし、ここでのようにひきこもりという「緩慢な死」を選ぶ人もいる。
 この番組の最後に、「生きているだけでいいんだよ、とそういう世の中に」云々というナレーターの台詞があるが、これはわたしには多少甘っちょろい感じがした。生きることは基本的に苦痛ではないか、そうでない人は恵まれているというべきである。生きることが苦痛でありつつ、それでも生きていける精神的土台を作らなければならない。わたしは、生きることは苦痛でも、少しはよいこと、楽しいことがあるべきだと思っている。それが可能かということだ。残念ながら、ではどうすべきかという解をわたしはもっていない。
 わたしは、ひきこもり(いまや全国で100万人といわれる)もひきこもり死も、これからもっと増える気がする。それは、確実に時代心理的なものだ。

こともなし

日曜日。晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。入試の過去問。
昼食は皆んなでおばあちゃんのカレー。
午後も夕方までお勉強。問題がむずかしくてこりゃたいへん。

紙屋高雪氏のブログ論説を読んでとりとめもなく空想していたのだが、いわゆるプラネタリー・バウンダリー、つまり「(地球という)惑星の限界」を超えないようにするのに、SDGs ではダメならどうしたらよいのか。これは基本的に専門家が考えるべきことであるが、無知なわたしという素人が空想するに、資本主義を捨てるわけにいかなければ、地球全体の人口を極端に減らすしかないのではないか。でも、そうなれば経済構造や文明の形態はまったく変わってしまうし、「文化」というものも激変するだろう。そして資本主義を守ったつもりでも、そうなって実際にそれ自体が維持できるかもわからない。結局、いずれにせよ、現在の形態の資本主義を保守していくわけにはいかないのではないか。
 けれども、短期に地球全体の人口を極端に減らすことは、ふつうには不可能であると考えられる。つまり、このままだとプラネタリー・バウンダリーというものが短期的に超えられてしまうというのが科学的に正しいならば、現在の高度資本主義は近い将来に極端に大きく変質されねばならない。そしてそれが可能なのか、わたしにはまったくわからない。不可能ならば、すなわちプラネタリー・バウンダリーが超えられてしまう(=破滅)ということになる。あくまでも、「このままだとプラネタリー・バウンダリーというものが短期的に超えられてしまうというのが科学的に正しいならば」であるが。事態がゆっくりしか進まないならば、SDGsでよいということになる。
 繰り返すと、大幅に地球人口を減らすのでなければ、資本主義は発展が必須であるがゆえに選択肢は SDGs しかなく、SDGs=ゆっくり進むのが無理なら、後戻りするか転換する(どちらも資本主義ではたぶん不可能である)しかない。いまは SDGs が、そしてSDGs で可能かを見定めるべき時期ということであろう。

しかし、一般の民衆がこんな面倒なことを考えなければいけない世の中は、何かおかしいよ。でも、遠くない将来に破滅するかも知れないっていうのだから、仕方ないじゃないか。ちなみに、こういうことはわたしの学生の頃(四半世紀あまり前)からおおよそ予想されていたのだが、その時代我々はバブル景気に浮かれていたのだよね。誰も聞く耳もたなかった。ひどい話である。


榎本渉を読む。
早寝。

武満徹と世界の「大きさ」

晴。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー393円。ミスドのパイを食って、ミスドのコーヒーで深く満足する安上がりなわたくし。『武満徹著作集1』の「樹の鏡、草原の鏡」を読み始める。冒頭の「Mirror」の三つの文章と、「暗い河の流れに」。ますます武満さんの文章にハマっている。武満さんの音楽は、なんといってもいわゆる「現代音楽」であるから、ある程度の耳の訓練、あるいは慣れていない人にはたぶんかなり「難解」だ。もっとも「現代音楽」のジャンルの中では比較的聴きやすく、ゆえに革新的でないと見做している人たちも少なくないが、そういう人たちは変人か一種の「おたく」(ここでは悪い意味で)なので、放っておこう。いきなり聴いて全然わからない、苦痛ですらあっても、おかしくはないのかも知れない。しかし、である。大部分の音楽とちがって、武満さんの音楽は、まったく音楽を聴いたことのない人(そんなひとはいないので、仮想的に存在したとして)、あらゆる人、いやつつましく少し限定して、あらゆる日本人に、深く関係している、そういう音楽である。たぶん、日本の「自然」に触れたことのある人には、すべて。武満さんは西洋音楽から出発して、日本の「自然」そのものに向かう、そういうとあまりにもわかりやすすぎてよくないかも知れないが。私たちが殺しつつある、あの日本の「自然」である。たぶん、殺している「主体」は、我々の西洋的理性かも知れない。その意味で、我々は武満さんの音楽の目指しているところから、ひどく遠くへ行こうとしている。それだから、武満さんはいまにおいてこそ「難解」なのだ。
 わたしは思う。かつての世界といまの世界、世界の「大きさ」として、かつての方が小さかったと思うのは現代人の完全な錯覚であると。せめて、いまも昔も、世界の「大きさ」は同じだったと仮定しよう。かつてと現在においてちがうのは、いまの方が世界が遥かに細かく分節化されていることだ。そして、いったん物象化された概念が世界を人工的に再構成し、その人工化された世界が再分節化されて象徴的に再構造化される。その繰り返しである。もちろん、駆動力は資本主義であり、この地球上でそれを逃れている場所はもはやどこにもない。我々は、「野生」を失いつつある。あとは、人工的に構築された「野生」というものが可能か、というところなのかも知れない。ついでにいっておけば、日本のアニメは、それに関しておもしろいことをやっている。我々の想像力は「野生」を生み出し得るかという、世界最新の実験なのだ。
 しかし、わたしはたぶん、ついにはそちらの方向へ行かないような気がする。時代遅れの人だから。武満さんの方向へわたしは進みたいと思うし、音楽の世界で武満さんはわたしの知る限り、そうしてもっとも遠くまで進んだ。武満さんは時代遅れとはいえない。無能なわたしも、そちらの方向で、無力な試みをしてみたいと思うのだが、既に人生の黄昏において、果たしてそれは可能なんだろうか?
 わたしは、武満さんに似た人として、よくベートーヴェンを思う。もちろん、わたしだけが「似ている」と思うのみだ。武満さんが「自然」に繋がっているのと似たような感じを、ベートーヴェンはわたしにもたらす。ベートーヴェンも、深く自然を愛した人だった。彼の心そのものが「野生」だった。西洋音楽ベートーヴェンの生み出した構造を分解して再構築し、完全にプロセス化してみせたが、それはベートーヴェンには意外なことだったのではないかと、わたしは夢想する。

日没前、散歩。住宅地を歩いてきた。


ムクドリかな。おしり。




さすがに寒かった。

しかし、上の文章を読み返してみると、武満さん=日本の「自然」というのは、ひどいミスリードですね。武満さんが読んだら、叱られるような単純化だ。それに、「自然」といったら、美しい日本の海山空みたいなものが想像されてしまうだろうし。わたしはエコロジーとか言いたいわけじゃないのだけれど。まあしかし、いっか。武満さんがまさに「東洋」なのは、やはり否定できないところだしな。その「東洋」は、西洋人の心の中にもある、ひとつの思考法です。

鈴木大拙『禅百題』

曇。

肉屋。スーパー。

細かな粒子たちの微細な振動。旋回。
昼寝。昔のエンタメを思わせる奇妙な夢。

冬眠。


図書館から借りてきた、鈴木大拙『禅百題』読了。我々はお勉強のしすぎで、しかもそれをなかなか解体し切れない。だからわたしなどは、つくづく苦しむことになる。自縄自縛とはこのことだ。しかし、大拙という人はほんとに偉かったな。本書を読んでいると、わたしのような者でも大拙の心の常に生き生きと動いているのに感じて、思わず笑ってしまう。安永祖堂老師が「禅は笑いの宗教だ」と仰ったのはこれだと、まことに思われることである。
 「大拙の『禅』は仏教でない」という主張はめずらしいものではないが、仏教とやらも硬直化したものである。そして硬直化した仏教が、果たして仏教と呼べるものであろうか? 大乗仏教は既成の「仏教」の形骸化に対する批判運動であったが、現在また新たな批判運動が必要なのかも知れない。日本においても、悪しき仏教原理主義が蔓延っているところである。いやいや、こんな語り方ではダメなんだけれどね。
 大拙をつらつら思うに、ひとりの人間の生涯で、ここまでのことが可能であったのかと、胸があつくなるような感じがする。いや、もちろん大拙ひとりの力というのは当たらないわけだが、それでもわたしのいうことはわかってもらえないかな。わたしのごとき、懦夫をもって起たしめるところがある。そこは、吉本さんや、中沢さんと同じだ。ちっぽけで無力なわたしは、こういう人たちがいなければ、とうに諦めていたところであろう。

武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

明け方まで雪。晴。

積雪 4cm くらい?

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番 K.218 で、ヴァイオリンはヴィクトリア・ムローヴァ、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NMLCD)。

NML にダニエレ・ポリーニのアルバムが入ったのでちょっとだけつまみ食いしてみた。合計で10分ほどしか聴いていないので、もとより評価云々できるわけではない。さて、ダニエレは名前からわかるように、大ピアニストたるマウリツィオ・ポリーニの息子である。このアルバムはショパンエチュードに、スクリャービンシュトックハウゼンというラインナップだ。父親は若き日にショパンエチュード・アルバムで衝撃的なデビューをし、それはいまでも名盤として語り継がれ聴き継がれているわけだから、ダニエレの選択は思い切ったものだ。父親の後年のスタイルに近く、若きマウリツィオの引き締まった、粒立ちのよいタッチとはだいぶちがう。わたしは70年代の、マウリツィオのスタイルが好きだったし、彼をいまでも聴くとすればそちらになるだろう。ダニエレはショパンよりも、父親の演奏しなかったスクリャービンの方がまだ合っている感じがした。しかし、聴いたのがソナタ第十番(の冒頭)ということもあるが、あんまりロマンティックではないね。父親のついに録音しなかったシュトックハウゼンは、ちょっとうるさい感じ。
 あんまりよいことを書かなかったようであるが、いっておくけれども disろうという気持ちなどは毛頭ない。とにかく10分くらいしか聴いていないので、それで評価なんてできるものではない。さても、父親が大ピアニストだから、デジタル配信にせよメジャーレーベルで録音が出してもらえ、わたしのようなスノッブがつまみ食いしてみたりするのはいいことなのだろうけれど、それよりも何をやっても父親と比較されてしまうこと必定なのは、たぶんとてもつらいのではないかと思う。それだけでエールを送りたい気持ちになってしまう。勝手なこと書いた。

Chopin: Etudes Op. 10; Scriabin: Late Works Opp. 70-74; Stockhausen: Klavierstück IX

Chopin: Etudes Op. 10; Scriabin: Late Works Opp. 70-74; Stockhausen: Klavierstück IX

  • 発売日: 2018/04/06
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114 で、クラリネットエリザベート・ガンター、チェロはウラディーミル・ライクスナー、ピアノはスタニスラフ・ボグニア(NML)。 

昼からこのブログの過去記事を読み返していたら、おおよそ三箇月分にもなった。いやー、おもしろいじゃんとか、バカだね。供養である。

コロナ禍を気にしてもう十日あまり一人では「ひぐち」に行っていなかったので、ちょっと行ってみたら、そこで誰かが「今日は東京では800人(感染した)」と言っているのが聞こえて、ぎゃふん(?)となった。マジ困るよなあ。ついに指数関数的爆発段階に入ってしまったのか知ら。
 『武満徹著作集1』所収の「音、沈黙と測りあえるほどに」読了。元本は1971年刊。自分の考えていることと非常に近いことがいっぱい書いてあって、目を見張らされる。例えば東洋と西洋。個性と anonymous。自然と人工。まあ、自分には武満さんの言葉がいろいろと入り込んでいるので、近いことを考えているのは当り前かも知れない。それにしても、わたしがこれまで生きてきた中で、こういうことをマジメにかつ深く考えている人は、まわりには当然いなかったし、有名な「知識人」でもほとんどいなかった。結局、わたしは古くさい小林秀雄あたりにとっ捕まって読み込んだおかげで、まわりまわって武満さんに反応できたのかも知れない。わたしは、「ハゲみつ? そんなのはいいから××を録音しろよ」という多くの現代音楽ファンをあまり信用していない。ま、大して音楽のわかっていないわたしは、それゆえにわかっていることもあると思っている。そういうわたしも、長いこと武満徹の音楽の特別さが聴けていなかったから、あまりエラそうなことはいえないのだが。

武満徹著作集〈1〉

武満徹著作集〈1〉

「ひぐち」から帰ってくるときの信号待ちで、ちょっと田舎っぽいセーラー服の女子中学生が三人、立ち話しているのを見かけたのだが、笑い転げているのか、ひとりがこの寒い中、セーラー服のまま地べたに座り込んでのけぞっているので、感心してしまった。ああいうのが若いってことかな。

松岡正剛は武満さんについては1033夜で、彼にしては比較的悪くないことを書いている。しかし、例えば立花隆氏の大著や小野光子さんの評伝には、本質度で全然およばないけれど。ま、松岡正剛はあの自慢話とニセモノ感がウリなのかも知れないな。クズがエラソーにすみませんけれども。

■フランクのピアノ五重奏曲 ヘ短調で、ピアノはサンソン・フランソワ、ベルネード四重奏団(NML)。予想どおりどう考えるべきかなかなかむずかしい演奏になっていた。問題はサンソン・フランソワなので、その前に、ベルネード四重奏団(まったく知らない)がすばらしかったことをいっておきたい。この曲は濃密さと高い緊張感が必要なわけだが、このカルテットは冒頭から気合の入った集中力を聴かせてくれて、全体的にフランクにぴったりな演奏だったと思う。で、フランソワなのだが、このピアニストは天才であり、ダンディで洒落ていて、練習もせず、しかも演奏がカッコいいという、まあ他に代えがたい人である。音も美しく、ショパンなんかをちょっと崩して弾いてみせるところなどは絶品だ。結論からいうと、第一楽章は何だかわからない、すごい迫力があって、思わず感動させられてしまった。弦楽四重奏団の方とあまり合っていないのだが、何とか崩壊せずに弾き通しているところがすごい。しかし、第二楽章、終楽章はフランソワの明晰なピアノが、濃密なフランクの音楽とちょっとミスマッチな感じがしないでもない。多少平凡というか。全体として悪くはないのだが、フランクらしくはないというところか。でも、聴いてよかったとは思う。いつ頃の録音なのだろうか。

Franck: Quintette pour piano et cordes, FWV 7

Franck: Quintette pour piano et cordes, FWV 7

  • 発売日: 2020/11/20
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
フランソワについていろいろぐぐっていたら、たまたま松岡の1579夜にぶつかってしまったが、これなどは「このハッタリ野郎!」と嫌悪感しか覚えない。困った人だな、この人は。いろいろ切って貼ってめちゃめちゃに「編集する」だけで、感性が空っぽなこれなどは、もっとも悪い部類の松岡だと思う。他人に読解力と感性がないとでも思っているのだろうか。ま、どうでもいいのだが、そんなことは。

こともなし

雪だ。起きたら 2cm ほど積もっていた。
何というか、恋人と過ごす、淡々とした静かな映画のような、長い長い夢を見る。わたしも彼女も若い。食事したり、バスに乗ったり、歩いたり。結婚願望ということであろうか、いまのわたしにそんなに結婚願望があるという気もしないのだけれども、心の奥ではちがうのかも知れないな。

米を研ぐ水がひどく冷たくなった。ちなみに、このあたりでは「米を研ぐ」ことを「かす」というのだが、ぐぐってみると方言のようである。漢字もわからない。

霙。昼すぎおやつしていたら、雪になってどんどん降ってきた。

榎本渉を読む。

こともなし

晴。
だいぶ横につぶれた平行四辺形の三頂点を通る円の夢を見る。どうやら向こう側へ突き抜けた夢っぽい。起きてすっきりした気分。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番 K.216 で、ヴァイオリンはヴィクトリア・ムローヴァ、エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団NML)。

■バッハのフルート・ソナタ ハ長調 BWV1033、ホ短調 BWV1034 で、フルートはオーレル・ニコレ、チェロは Johannes Finkチェンバロカール・リヒターNML)。よい。

シューマンの「謝肉祭」 op.9 で、ピアノは内田光子NML)。すばらしい演奏だった。内田光子のロマン派の演奏は、もちろん楽譜は緻密に読んでいるのだろうけれど、好きに弾いている感じがしてそれがいい。内田の「ダヴィッド同盟舞曲集」の録音はあるのかな(追記:あるみたいだ)。なお、ここでは Sphinxes が演奏されている。
シューマン:クライスレリアーナ、謝肉祭

シューマン:クライスレリアーナ、謝肉祭

  • アーティスト:内田光子
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: CD
 
かかりつけ医。スーパー。
時雨れる。車外は4℃で、寒い。


岩波文庫の『盤珪禅師語録』を読む。鈴木大拙編校。初版は昭和十六年で、わたしがネット古書で買ったのは昭和四十一年第四刷、グラシン紙で巻いてあり、まだ後年のカバーはない。星三つ*1。丹い蔵書印が押してあり、最初の方にはところどころ傍線が引いてある。盤珪禅師は「仏心は不生にて霊明である」と繰り返すが、その「不生」というのがなかなかにむずかしい。「生じることもなければ、滅することもない」ということで、つまり仏心は誰にも生まれつき備わっているということらしい。だから、そのことに気づきさえすればよいのだし、それはむずかしいことではないと繰り返し語られるのであるが、やっぱり凡夫にはなかなか大変である。とかいうと、禅師に「凡夫などはいない、仏心は不生なのだから」と論破というか、叱られてしまうんだけれどね。
 ネットで見ると、盤珪禅師は一冊の本も書かなかったし、説法を書き記すことも許さなかったというが、それでも語録が後世に伝わってしまうのが本物ということだろうか。ありがたい本であることじゃ。

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

  • 作者:永琢
  • 発売日: 1987/09/01
  • メディア: 文庫
 
今日は一段と寒いな。雪が降るという予報だったが、さすがに降らなかったけれども。

*1:追記。岩波文庫の「星」というのは、いまではわからない人も多いだろうな。