NHKスペシャル「ある、ひきこもりの死」

晴。

スーパー。

ごろごろ。

ツイッターを見ていると俺って無知な時代遅れで老害だなって痛感するな。

プラネタリー・バウンダリーの問題は思っていたより遥かにむずかしいな。まず、プラネタリー・バウンダリーの問題は存在するかというのがある。そして、仮に存在したとして、それは資本主義体制下で解決可能なのかということがある。でも、これではまだ考察が粗すぎるな。
 プラネタリー・バウンダリーの問題は一見我々の身近な生活からあまりにも遠いようである。しかしじつは逆だ。全世界的な破滅が問題になっているのだから、我々の人生・生活の問題そのものである。困ったものだな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8D%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%BC
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h29/pdf/gaiyou.pdf
杞憂というのは空が落ちてくることを心配した愚か者の話だったと思うが、いまは実際に空が落ちてくることを想定しないといけない時代になってしまった。

録画しておいた、NHKスペシャル「ある、ひきこもりの死」を見る。
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つらくて悲しいドキュメンタリーだった。わたしもいまでは、ネット以外にあまり世間と接触していない(わたしはネットは現在の世間だと思う)ので、まあひきこもりみたいなものだが、なので「ひきこもり死」の気持ちも少しはわかるところがあると思っているが、とてもそこまでいっていないと思った。わたしも老父母が先に死んだら(どうなるかはわからないけれど、もちろんわたしが先に死んではいけない)、あんな風になるのだろうか。
 最初に出てきたひきこもり死の人は、死後弟さんが調べていくうちに、じつは必死で生きようとしていたことが判明する。しかし、それなのに、この番組の事例では、この人だけでなく、仕事にうまく適応できなかったケースが幾つもあった。そして、一切の希望を失ってしまったのか、「生きる気力」というものがなくなってしまい、支援すら拒むようになってしまう。いや、そんな風にまとめてしまってよいものかわからないが、ここにあった「生きていてもちっとも面白くない、働いて働いて、頭の中はからっぽ」という手記の気持ちが、理解できる人は少なくないのではないか。そこで、自殺する人もいるし、ここでのようにひきこもりという「緩慢な死」を選ぶ人もいる。
 この番組の最後に、「生きているだけでいいんだよ、とそういう世の中に」云々というナレーターの台詞があるが、これはわたしには多少甘っちょろい感じがした。生きることは基本的に苦痛ではないか、そうでない人は恵まれているというべきである。生きることが苦痛でありつつ、それでも生きていける精神的土台を作らなければならない。わたしは、生きることは苦痛でも、少しはよいこと、楽しいことがあるべきだと思っている。それが可能かということだ。残念ながら、ではどうすべきかという解をわたしはもっていない。
 わたしは、ひきこもり(いまや全国で100万人といわれる)もひきこもり死も、これからもっと増える気がする。それは、確実に時代心理的なものだ。