名古屋の伯母を訪ねる、ついでに「カラヴァッジョ展」 / 井筒豊子『井筒俊彦の学問遍路 ――同行二人半』

深夜起床。

鈴木大拙が今北洪川老師について書いた本を読む。わたしは禅については(ついても)よく知らないが、きわめて厳しい世界だということくらいは承知している。まあそんなことは措いても、今北洪川老師の周囲の人は慕わしい人が多くて、つい惹きつけられる。老師の後継者である釈宗演老師もまた慕わしい人で、著者の鈴木大拙もその近くの人だ。大拙は名のみ高くて現在ではまともに読まれているのを(わたしが)見たのは寥寥たるもので、はっきり言って侮られていると思うが、わたしは大拙は本当にえらい人だったと最近つくづく思うようになった。が、わたしごときでは残念ながらまだとても充分には読めないのであるが。それにしてもいまや大拙のような人が侮られて、霊性的自覚のない人が専門家(いまでは仏教の「専門家」というのである)として大きな顔をしているのを見ると、つくづくさみしい。そういう人たちはまた日本仏教をまともに認めない(敢て言えば、理解していない)ことでも共通している。存在するのが恥ずかしい程度の坊主や「専門家」が、霊性的自覚のない言葉を吐き散らしていて、これは正しいことを言っていようが害にしかならないとわたしは思う。自分ごときが何様なことはわかっているが、本当に慕わしい宗教者がほとんどいなくなったと思うのだ。わたしが日本の近世・近代の生き生きした禅僧たちを好むのも、禅そのものよりも、禅によって鍛え抜かれた彼らの大慈悲に惹かれるからだというのははっきりしているのである。正直言って、何が正当な仏教だとか、日本仏教は釈迦の仏教ではないとかは、少なくともわたしにはどうでもよい。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはカールハインツ・ツェラー、ハープはニカノールサバレタ、指揮はエルンスト・メルツェンドルファー、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。存在するのが信じられないほど美しい曲だ。この演奏はサバレタのハープの独壇場である。フルートもよいが、少しくすんで聴こえるくらい。サバレタは天上的な曲をまさしく天上的に、生命力に満ちて弾いている。

スカルラッティソナタ K.105, K.426, K.517, K.490, K.69, K.518, K.28 で、ピアノはジョン・マッケイブNML)。いまの自分の気分にスカルラッティは合っている。

ショパン即興曲第一番 op.29 で、ピアノは藤田真央(NML)。若手のホープであるらしい藤田真央のショパン。藤田のもっている射程はなかなか大きく、才気も感じさせるオシャレなショパンである。持て囃されるのもわかる。しかし、わたしにはいかにも感情が浅く聴こえる。まだ第一番などはよいが、即興曲全曲を聴くつもりだったけれど苦痛であきらめた。愚かしいおっさんの言ではあるが、もっと人生経験というものが必要なのではないか、と人生経験のないおっさんがいう。

■バッハのイタリア協奏曲 BWV971 で、ピアノはフリードリヒ・グルダNML)。グルダは好きなピアニストといわざるを得ない。生命力に溢れたバッハだ。

Gulda Plays Bach

Gulda Plays Bach

晴。
老母を乗せて、施設に入っている名古屋の伯母のところへ行く。二年ぶりくらいか。認知症が出ていたので我々のことがわかるか心配だったが、思ったより元気だった。まあ、もう九十二歳ですからね。わたしのことは孫とまちがえたりしていたが、説明すればわかったし(甥です)、妹(老母)のことはちゃんとよくわかっていた。かつてはいろいろややこしいこともあったのだけれど、全部わすれて、却ってよかったような気もする。父母(わたしからすると祖父・祖母)が亡くなっているということが混乱していて、もうとっくに死んだことをいうと非常にさみしがっていたが。伯母はほんとに父親のことが好きだったのだなあと思う。とにかく行ってよかったな。

名古屋市美術館で「カラヴァッジョ展」。近くでランチ(参照)を食べてから観たが、まずまずというところ。カラヴァッジョ自身の絵より、同時代の絵画の方が多かった。カラヴァッジョはバロックの画家なので、かなりドラマティックであり、グロテスクでもあったので、老母などは気持ちが悪いと言っていた。明暗のコントラストが激しく、ルネサンス絵画とはだいぶちがう。でも、西洋っていうのは基本的にバロック、ごてごて趣味なのだよね。「肉食人種」だと思う(偏見です)。カラヴァッジョは後世への影響は大変に大きく、現在において高く評価されている画家に入るだろう。それでも、展覧会の人出はそこそこというところで、混雑というほどでもなかった。
 美術館併設のカフェでコーヒーを飲んだが、延々と待たされた上に(たぶん忘れられていた)、コーヒーは最近のよいインスタントの方がおいしいというものだった。ま、そんなものですかね。

図書館から借りてきた、井筒豊子『井筒俊彦の学問遍路 ――同行二人半』読了。といっても、豊子夫人自身の文章はところどころ拾い読みで済まさせて頂いた。申し訳ない。インタヴューは興味深かった。

井筒俊彦の学問遍路:同行二人半

井筒俊彦の学問遍路:同行二人半

この本とはあまり関係がないが、このところふと井筒先生と司馬(遼太郎)さんとの対談を思い返すことがある。フランクな対談で、井筒伝説の少なからずはあの対談が元ではないかと思っている。井筒先生は対談など滅多にされない方なので、司馬さんを評価していたことは明らかだ。ここでわたしが思うのは、井筒先生のことではなくて、現在における司馬遼太郎評価の急落である。それ相応の知識人からどうしようもないクズ(としか言いようがない)まで、司馬遼太郎は幼稚で不正確で読むに堪えないというがごとき発言が繰り返されているが、わたしはそうは思わないのである。もっともわたしは司馬さんの小説はそれほど読んでおらないので、司馬さんの代表作は「街道をゆく」のシリーズであると信じて疑わない。これほどのものが書ける知識人は、現代に他にほとんどいない筈である。まあしかし、そんなことをいってもムダであろう。西洋かぶれやネット民は、好きにしたらよいのだ。それにしても、己の学識を知らぬ輩に満ちた時代であるな、いまは。

しかし、井筒先生についても、「中二病にウケる」と池内恵さんは仰っていたっけ。まったく御もっともで、中二病者であるわたしのごときは井筒先生が好きである。たぶん、一生読んでいくであろう。

山本浩貴『現代美術史』を速読・拾い読み。著者はわたしと「常識」の領域が少ししか重ならない。わたしは現代美術の「常識」について不勉強なせいもあって、ほとんど読むに堪えなかった。しかし、労作であることはわかる。これからはこういう本がスタンダードになっていくことだろう。わたしの興味あるあたりではわたしには著者の言っていることは寝言にしか思えなかったが(例えば柳宗悦の理解。柳宗悦を「オリエンタリズム」で切って何の意味があるの?)、わたしが「正しい」とはされるまい。まあ、それでよいのである。若い人たちはそれはそれで時代を作っていくのだから。

本書を読んでわたしの思ったのは、じつに不勉強なダメなおっさんが考えそうなことである。つまり、「いまの現代美術にどんな意味があるのか、いや、意味はないのではないか?」という。現代美術は閉じた世界で、一般市民に何か衝撃力をもっているのか、といってもよい。一般人のわたしなどは、地方の美術館の常設展示の「現代アート」を、さっさと見て歩くくらいのことしかしていない。まあ「衝撃力」などは現代アートは狙っていないのかも知れないが、わたしのような保守的な感性の人間には、いわゆる「現代アート」よりも、それこそカラヴァッジョの方が「衝撃力」がある。ま、古くさいのですけれどね、わたしは昔から。

わたしは芸術は概念あるいは言語あるいは「理屈」を超えなければならないと(古くさくも)思っているので、本書のような記述を超える「現代アート」を見てみたいものだと思う。内輪のひとりよがりを超える「アート」というか。まあ、怠惰で貧乏な田舎者にはなかなかむずかしいことだが。

何かエラソーなことを書いたな。美術なんてよく知らぬくせに。


シェーンベルクの「五つのピアノ曲」 op.23、「ピアノ組曲」 op.25 で、ピアノはピーター・ゼルキンNMLCD)。■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第六番 op.27-6 で、ヴァイオリンはノエ・乾(NMLCD