こともなし

曇。早起き。
昨晩は思うところあって、輾転反側してなかなか寝付けなかった。といっても十二時くらいには寝たのだけれどね。あらためて、むずかしい時代に生きているのだなあと思う。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001 で、ヴァイオリンはヤッコ・クーシスト(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番 op.13 「悲愴」で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NML)。コヴァセヴィチの雄渾な演奏。現代でこんな演奏してどうすんだよというような感じ。吉田秀和さんは「三大ソナタとか勘弁してくれ」みたいなことを仰っていたけれども、わたしはふつうの人なので(?)いわゆる「三大ソナタ」は決してきらいでない。ホント、わたしはベートーヴェンが好きすぎですね。

Beethoven;Piano Sons.8,9,10

Beethoven;Piano Sons.8,9,10

コヴァセヴィチがそんなに好きなら、全 Philips レコーディングを買ってやれと 25枚組 BOX セットをぽちりとやりました。ほとんど NML で聴けるからムダな出費なのだけれど、心意気(?)だね。ひさしぶりに CD を買ったわ。それでもたぶん NML で聴くのだろうけれどな(笑)。
Various: Complete Philips Coll

Various: Complete Philips Coll

 
午前中二時間半ほど、甥っ子の勉強を見る。素直で飲み込みも悪くないのだが、とにかく勉強していない。でもまあ、二時間半ぶっとおしで頑張ったから、それはよくやったけれどね。たぶん、めっちゃ疲れただろうと思う。
でも、僕がかつて教えていたのでもすごいのはもう雲の上みたいなものだから、こんなのを皆んなやるとかどうなんだろうとずっと思ってきたけれど、そんなことをいうと職業としては自己否定なのだよなあ。こういうのは文化資本どうのといろいろ面倒な議論があるのだけれど、しかし生きるってなんだろうとか答えのない凡庸な問いが脳裏に浮かんだりする。


昼からイオンモールを訪れるも、駐車場が空いていなかった。車外は36℃。カルコスへ寄って帰る。岩波文庫が入らなくなったのはやはり痛い。

ラ・ロシュフコーの『箴言集』の文庫新訳を入手したので読み始めたが、とても読み続けられなかった。ので、50ページ程度で挫折。学生のとき岩波文庫版で非常におもしろく読んだのだが、あの頃はわたしも意地悪な秀才だったからだろうか。いまは馬鹿なおっさんになったせいか、こういう軽くて鋭い知性はもはや受け付けない。例えば訳者は、本書の最大のテーマが自己愛(amour-propre)であるといい、わたしもまあそうかなと思わないでもないが、確かに誰も(わたしも)自己愛から逃れられないけれど、そんなことはどうでもいいのである。自己愛など、中二病すぎて、眠い。勝手にやっていたらよいのだという気がする。実際自己愛が気になる人間というのは、よほど生活に余裕のある人間ではないか。ラ・ロシュフコーが生息していた、いかにもフランスのサロン発祥の文学という気がする。

それに、この程度のもの、インターネットにごろごろ存在していないか? かのラ・ロシュフコーをネットと同じにするなと叱られるかも知れないな。ま、しかし、マジで一読を勧めておきます。ネット民必読であろう。


ギュンター・グラスの『蟹の横歩き』を読み始めた。ヴィルヘルム・グストロフ号事件を扱った小説である。かなりセンシティブな題材なので、グラスはかなりいろいろな仕掛けをしていて、ぼんやり読んでいるとわからなくなってしまいそう。池内紀訳。「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」は、先日読んだ池内さんの旅行記で知った。本書を読み始めて、豪華客船ヴィルヘルム・グストロフ号の最後の航海は、旧ゴーテンハーフェンを出港したと気づいた。ケーニヒスベルクから出たと勘違いをしておりました。きちんと読めていなかったね。


寝る前に澁澤龍彦を読んでいたら、「…私たちは抑圧のない社会で、何らかの抑圧を求めて苦しまねばならなくなることは必至なのだ」(「サドは裁かれたのか」)という文章があって目の覚めるような思いがした。ここでの「抑圧」は性的、あるいはフロイト的な意味であるが、現在は既にまさしくそれがそのとおり実現されている。いまの青年男子の少なからずには、「抑圧によって作動するエロティシズム」という回路がない(例えばいまのアニメには、性的抑圧などほとんどないのではないか。よく知らない人間の印象論ではあるが)。また、同じ文章で、将来(我々からすると現在であるが)の父性の欠如もまた予言されていて、じつに正確きわまりない。浅田さんは「この程度で異端とか言っている澁澤龍彦など徹底的に軽蔑してやるとよい」というようなことを仰ったが、筒井康隆氏のいうように、澁澤は正統も正統、自分にはとてもたんなる異端などとは思えないのである。

それで脈絡もなく思い出したのだが、わたしは現在の「女性のコスプレ」というのをどう考えてよいかわからない。あれは、どういう視線を意図してなされているのか。ネットで見ていると、非常にきわどい格好をした画像が氾濫しているのだが。特に中国の女の子たちとかてんこ盛りである。フェミニズムの人たちは、あれをどう考えるのであろう。斎藤美奈子さんあたりに訊いてみたい気がする。