落合陽一『日本進化論』

晴。
寝坊。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第二十二番 Hob.XVI:24 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNMLCD)。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus VIII a 3, IX a 4 alla Duodecima, X a 4 alla Decima, XI a 4 で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NMLCD)。


昼からイオンモールへ。まずは未来屋書店にちょっと寄って、何となく新書本二冊を買う。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ホット・セイボリーパイ フランクフルト+ブレンドコーヒー486円。いま買った落合陽一氏の『日本進化論』を読む。自分のような旧人種にはあまり読むところがなく、二十分ほどで読了。旧人種が諸悪の根源らしい(誤読?)。生きていてすみませんである。しかし、せっかく若くて優秀なのだから、無意味なヒョーロンカになってエラソーなことをほざいておられるよりか、自分の専門で世界一になった方がよいのではないか。自分のよく知らないことを吹聴して、ついこの間もネットで叩かれて謝罪しておられたが、若い人たちの希望の星なんでしょう? わざわざ旧人種の悪弊に染まることはないと思うのだが。まあしかし、余計なお世話だし、わたくしのごときが何様ですね。

日本進化論 (SB新書)

日本進化論 (SB新書)

次いでこれもいま買った『移民国家アメリカの歴史』を読む。かなり硬い本で読みやすくはないが、さらりと言及されるパスポート・システムの誕生のあたりから俄然興味がわいてきた。なるほど、第一次世界大戦以前にはパスポート・システムはまだしっかりと構築されていなかったのか。考えたこともなかった。それから、「優生学」というとついナチスを思い出してしまうのはわたしだけではないと思うが、優生学ってのはアメリカが本場の「学問」だったのだな。これもアメリカが「移民国家」であることの帰結である。おもしろい。


落合陽一さんの新書をあちらこちらひっくり返しているのだが、データ重視で理性的で、これは旧人種とちがうと思わせるに充分ではあるのだけれど、結局これって官僚のやっていることと同じなのだよね。つまり官僚(あるいは旧人種の一団)=バカで彼ら彼女らには任せられないから、俺達がやるという、とっても頼もしい限りである。「ポリテック」=政治+技術で、先端技術がすべてを(ではないかも知れないが)解決するという、まったく楽観的なビジョンですごい。そういうことは既に例えば東さんたちがやっていて、それを知らないとも思えないのだが、東さんたちがそれに真摯に取り組んでどういうことになったか、いやそれも知っていて言っておられるのだろうなあ。東さんたちでは力不足で、実際にコンピュータ・エンジニアリングの専門家である自分なら可能であるという自信のあらわれなのだろう。もちろん、わたしなどがそれをバカにするのは絶対に間違っている。それに、自分は経済的な意味で将来の日本に絶望しているのではまったくない。自分が絶望しているのは、日本ではなく日本人に対してであり、つまるところ自分に対してである。若い人たちが日本を救うことに関しては、共に賭けたっていいのだ。そしてその救われた日本には、自分のごときが居る場所はあるまい。それはまず間違いのないところである。そこに展開するのは、全面的に AI に支えられた、(東さんのタームを借りれば)「動物的」ユートピア、一生快楽の享楽に従事する階層と、バックヤードに生息する不可視の不可触賤民たちに二分された、限りなくリスク 0 に近づいた人工的世界の全面化であろう。それは一部ながら既に確実に現実化しているのだ。そして、今度こそ歴史はそこで終了するのかも知れない。

四方田犬彦『マルクスの三つの顔』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十五番 K.385 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。いわゆる「ハフナー」。安心して聴けるスタンダード。

ハイドンのピアノ・ソナタ第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNMLCD)。■ハイドンオーボエ協奏曲ハ長調 Hob.VIIg:C1 で、オーボエハインツ・ホリガー、指揮はデイヴィッド・ジンマンコンセルトヘボウ管弦楽団NML)。オーボエとオケの録音のバランスがよくない感じがする。ホリガーはあいかわらず蕩けるようなレガートであるが、オーボエ奏者も指揮者もちょっとモーツァルトと勘違いしているのではないかというようにも聴こえる。まあ気にしすぎかも知れない。

Trumpet Concerto / Horn Concerto 1 / Oboe Concerto

Trumpet Concerto / Horn Concerto 1 / Oboe Concerto

  • アーティスト: Academy of St Martin in the Fields,London Philharmonic Orchestra,Joseph Haydn,Michael Haydn,Neville Marriner,Iona Brown,David Zinman,Elgar Howarth,Amsterdam Concertgebouw Orchestra
  • 出版社/メーカー: Decca Import
  • 発売日: 2000/09/13
  • メディア: CD
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雨になる。
珈琲工房ひぐち北一色店。四方田犬彦マルクス本を読む。マルクスといっても三人(あるいは五人)のマルクスで、その三人とはマルクス・アウレーリウス、カール・マルクスマルクス兄弟である。三題噺ということであろうか。いかにも、また四方田犬彦が才知をひけらかしていると思われるだろう。とにかく図書館の書架にあったので借りてみた。
 とりあえずマルクス・アウレーリウスの分を読んだ。マルクス・アウレーリウスは二世紀のローマ皇帝で、五賢帝の掉尾を飾る、いわゆる「哲人皇帝」である。二世紀のローマは最盛期を過ぎ、ローマ帝国の広大な版図が次第に東方の敵や蛮族らの侵入によって頻繁におびやかされる時代になっていた。マルクス・アウレーリウス帝はストア哲学に傾倒し、辺境を転戦しながら後に「自省録」と呼ばれるようになる自分のための哲学的覚え書きを書き残すことになる。爾来本書は後世にあって長く読み継がれ、日本語でも神谷美恵子の手によって翻訳されたものが、岩波文庫に収録されている。四方田氏は意外なことに若い頃からこの「自省録」を愛読し、しばしばそれによってみずから慰められたことを記している。文章のあり様はいかにも四方田氏で、マルクスを同時代の喜劇作家・ルキアノスと対比し、さらに当時勃興しつつあった「キリスト教」なる新宗教と「自省録」をからめて終えてみせるという、大変に才気煥発なものだ。自分の長年愛読してきたという書物をこのように才気で切り刻み、一篇の劇のように仕立てているというところがなんとも四方田氏である。哲学的な考察も怠りなく、とても尋常の人間に書けるものではない。さて、続けて読むことにしよう。

夕食後、寝てしまう。数時間寝て起床。

図書館から借りてきた、四方田犬彦マルクスの三つの顔』読了。本書について著者はなかなか面倒なことを言い、規定しているが、わたしはわたしの単純さゆえ素朴に(短い)感想を書こうと思う。いや、おもしろかったですね、この本は。本書においても著者の才気が充満している。この人は頭がよすぎて、これまで自分の能力を十全に発揮できる題材に巡り合わなかったし、それは本書でも同じことだと思われる。それえゆえ著者の書くものは常人には真似ができない高度なものであるにもかかわらず、著者はこれまでまあ何というか、多大な悪口ばかりを浴びせかけられてきた、そんな気がする。どことなく、いたずらな才気の誇示に見えてしまうのだ。
 しかし、わたしはそういうことはここでは封印したい。先にいっておくと、自分はマルクス兄弟について知るところは何もない。本書の該当部分はたいへんおもしろく読んだが、何もいうことはできない。マルクス・アウレーリウスについては上に書いたので、カール・マルクスについて少しだけ。いや、おもしろいですね、これは。四方田犬彦カール・マルクスに何の関係があるかまずは謎なので、著者がどういう切り口を見せるのか、興味津々だった。意外と正面突破の正攻法の部分もあって著者の能力の高さが誇示されるが、マルクスが若い頃に少なからず書いた詩に注目するところなど、著者の才気が際立っている。マルクスの詩はこれまでほとんど注目されたことがないと著者はいうが、そりゃそうでしょう。しかしそこからコジツケめいた伏線を張って、あとで回収してみせるところなどは見事なものだ。それから、マルクスにおける「ファンタスマゴリー」。この語は一時期はやった表象文化論の重要タームであるが、マルクスにもこの語が、それもかなり重要な部分に出てくるということで、これへの注目は著者のオリジナルなものなのかよくわからないが、これもさすがに四方田氏らしい。従来の日本語訳ではこの語は「幻影」と訳されていて、これでは特に注目もされない筈である。ちなみにこの訳語を「ファンタスマゴリア」に替えることを提唱したのは故・今村仁司氏だそうである。ここで表象文化論に言及する能力はわたしにはないので、ここは是非四方田氏の文章に当たってみられたい。それにしても、わたしもかつて一応マルクスに目だけは通したが、本書を読んでいて完全に自分の理解を超えているなと思った。四方田氏の頭のよさはすばらしいものである。
 さて、本書を読んでみて、読む前に予想していたとおり、三人(あるいは五人)のマルクスをここに集結してみせることに、ほとんど意味はない。ただ、四方田氏の才知の披露の場であるのみである。本書の最後の部分は、著者による一種のいいわけであり、韜晦にすぎまい。しかし高級エンタメとしては、本書はとてもおもしろいものではないか。そういう読み方は、四方田氏のよろこぶところではないかも知れないが。ただここでも、四方田氏はその全力を投入する対象にめぐりあったわけではなさそうである。はたして四方田氏は、一種の才人としてだけで終ってしまうのであろうか? しかし、わたしはそれでどうして悪いかと思ってしまうのでもあるが。楽しい本だった。(AM01:26)

マルクスの三つの顔

マルクスの三つの顔

こともなし

晴。
睡眠の後始末が延々と長い。

いまや極めて悪名高いユング心理学では「自我」と「自己」を区別するが、我々の思考や行動の大まかな方向は我々がほとんど意識することなく「自己」によって決定されており、「自我」のできることはいわば末端の「選択」 selection しかない。これを我々は「意志」だと思っている。けれども、その「選択」はじつに「自我」にしかできないこともまた事実で、つまり「自己」にそのようなことはできない。だから、わずかな「選択」を繰り返すことで広大である「自己」の方向を変えていくこともまた不可能なことではなく、これは希望が完全に失われることはないという「希望の原理」の根拠でもある。とわたしは考えるのだが、それは正しいのか?

まあ希望といっても、ある種の希望にすぎないが。

県図書館。どうもこのところリヒテルが聴けないので、車中ではずっと晩年のリヒテルの弾くハイドンソナタを BGM にしていて、思うところがあった。まったく作るところのない、素っ気ない淡々とした演奏なのだが、聴いているうち音がとても美しく感じられる。スタインウェイ的美音ではまったくないのだが(そもそもヤマハだし)。リヒテルは淡々と弾いているだけだが、やはり大変広大な精神であり、わたしもふやけたものだと感じる。あんまり若い演奏家ばかり聴いていてもダメだな。


梶谷先生の「ニューズウィーク日本版」のウェブ連載、第四回まで一気に読んだ。「監視社会」化が急速に進行する中国を念頭において、「監視社会」を論じた最近の学問的成果がわかりやすく丁寧にまとめてある、得難い論考である。というか、怠惰で不勉強なわたしは一読して目ん玉が飛び出るほどの驚きを感じた。恥ずかしい話だが、合理的に(?)納得してというよりは、めっちゃエモーショナルに反応してしまい、それはいまでも続いている。梶谷先生ではないが、「背筋が寒くなるような感覚」に襲われてそのままなのである。わたしのごときでも何とか読めるくらい、わかりやすく噛み砕いて書かれているので、かかる題材に多少でも興味のある方は、とりあえず一読をおすすめする。
中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(2)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(3)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(4)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
以下はテキトーな感想文なので、読む必要はありません。
 しかし、自分はこれまで「監視社会」というものをあまりマジメに考えたことがなかったが、恐ろしいまでの難問ではないか。僕は上の連載を読み始めてすぐに東さんの「情報自由論」を思い出したのだが、それは梶谷先生の論考でも明快に整理されていた。まあそれはどうでもよいのだが、「監視社会」ってのはつまるところじつは我々「市民」の望んでいることなのだという考え方はそのとおりで、それは「リスクを可能な限り減らす、できれば 0 にする」という、わたしの大嫌いな(というのはどうでもいいが)発想と不可分だと思う。「監視カメラのおかげでコンビニ強盗が捕まる、すばらしー」ってのは素朴だけれど容易には反論不可能な考え方で、我々はそれに対してべつだん違和感をもたないのがふつうであり、そんなそれで「監視社会」なんて大袈裟なと思ってしまいがちであるが、ホントここから「監視社会」まではじつはまっしぐらな一本道だ。それにしても、いまの学問的論潮では「監視社会」の到来を防ぐことは不可能で、あとはその監視のあり方のチェックしかないということになっているとは、マジですか?である。でも、梶谷先生の整理を読んでいると、ホントそれしかなく思えてくる。まったく、自業自得的なことになってきて、わたしのような古くさい人間はますます生きる希望を失ってしまう。
 梶谷先生の論考では先生の専門である中国の状況の普遍性と特殊性について突っ込んだ考察がなされており、いわば「監視社会先進国」である中国の現状は「監視社会」を考える上でまったく目が離せないことがよくわかる。ただ、議論がわたしの能力をだいぶ超えているのが本当に残念だ。そもそも、わたしは「市民社会」という西洋由来の考え方すらたぶんよくわかっていない。そこは梶谷先生の論考でも明快に整理されているし、まあ頭ではわかる気はするのだが、自分はこれまで生きてきてこれが「市民社会」なのだという具体物(?)に出会った気がしないのである。森鴎外には「サフラン」(だったよね? ちがったかしら)というエッセイがあって、鴎外は「サフラン」を文字でしか知らないという内容だった気がするが(いや、わたしの記憶違いかもしれないけれども)、わたしには「市民社会」ってのはそういう感じである。だから、ハーバーマスも頭でしかわからない(まあ、むずかしくて頭でもわからないが)。
 しかし、学者ってのはえらいものだな。でも、自分にはむずかしくってしようがない。知識も能力もなくて、ホントどうしろという感じ。「市民社会」っていうとわたしはその「市民」なのだろうが、「市民」さんには議論がむずかしくって、困りますよ。はたしてわたしはそんな「市民」でいいのか? わたしのような能力が低い人間はリスクだから、パージした方がよいとかならないだろうか?

ハイパーパノプティコン…。まったく我々は、どこまでいけば気が済むのか。勘弁してほしい。

わたしは空想するが、子供が生まれた時点で、まず最初に赤ちゃんの体に GPSタグが埋め込まれるような時代がそのうち来るのではないか。いや、そこまででなくとも、生まれた時点から GPSタグの入ったブレスレットを一生身に付け続けるとか。もはやそちらの方向へ行くのは不可避のように空想してしまう。それは、リスク回避の名目でなされるのだ。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第二十二番 Hob.XVI:24 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。昼に車中で聴いていたものが頭の中をぐるぐる廻っているので聴いた。何でこの曲なのだろう。

ハイドン:ピアノ&ソナタ第2番&第24番&第32番&第46番

ハイドン:ピアノ&ソナタ第2番&第24番&第32番&第46番

小林信彦『最良の日、最悪の日』 / 伊藤比呂美『女の絶望』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。いわゆる「リンツ」。現代におけるスタンダードな演奏。

モーツァルト:交響曲第32番&第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」

モーツァルト:交響曲第32番&第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」

■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus III, IV, V, VI a 4 in Stylo Francese, VII a 4 per Augmentationem et Diminutionem で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NMLCD)。

バルトーク弦楽四重奏曲第二番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。


よい天気。市民公園の噴水がキラキラと光を鏤めてしばらく見とれる。
図書館。いつ頃からか、本屋も図書館もただ楽しいだけの場所ではなくなって、半分くらいは気の滅入る、そんな気持ちが混じっているのだが、今日は比較的マシだったのかも知れない。十冊も借りたのがその証拠だ。もちろん全部読むわけではなくて、半数はそのまま返すことになるのだが。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー。いま借りた秋山駿の『舗石の思想』を読み始めるも、あまりの下らなさに一瞬で放擲。もっとも、このマジメな文芸評論家を「下らない」で片付けてよいものか。文庫惹句に「<私とは何か>を徹底究明した代表的長編エッセイ」とあるが、わたしには「私とは何か」の追求など、あまり興味がないのだ。いや、もちろん自分のことなどどうでもいいというわけでもないのだが、どうもうまく言えない。本書はそのうち読み続けられたら読み直そう。
 もう一冊もってきていた、小林信彦氏の長期連載エッセイに切り替える。1999年度分と、もはや二十年も前のクロニクルで、わたしはこの頃のこと、時代の雰囲気をほとんど覚えていない。小林氏の文章はまだいかにも若々しく、自分にはちょっとはしゃぎすぎのようにも感じられ、最近のものの方が好みである。でも、そんなことは大した問題でもなく、おもしろく読む。この頃はバブル景気もとっくに崩壊し、1995年の阪神・淡路大震災オウム事件を経験したあとではあるが、まだまだ小林氏の辛口の文章も元気がよい。現在のもはやどうしようもない閉塞感がまだ見られず、興味深く思った。そうそう、まだインターネットも普及していない。本書には「ぼくたちは間違いなく、戦後最悪の時代に生きている」(p.46)で始まる一篇があるが、いま読むと少し微笑んでしまいたくなるくらいである。我々が現在知っているのは、この転落がどこまで続くか、その先も見えないということだ。我々はどこまで墜落していくのだろう。それともこれは、わたしという悲観主義者の妄想なのかも知れない。そうならばこんなに安心できることはない。

現在の閉塞感というのは、気分的なもの、あるいは「思想的」なものであろう。現実の経済状況に由来するものでは必ずしもなく、閉塞感が先にあって、それが経済的な観点に投影されている。いまでも根強い「アベノミクス失敗論」は、まさしくそれであろう。その意味では、かかる投影は理解可能なものである。
 しかし、その「閉塞感」はではどこから来るのか。わたしは大体のことはわかる気がするが、口にすることはためらわれる。それはどうしようもない認識で、我々から希望を確実に奪うからだ。ニセの希望でも、ないよりはマシである。それにまた、若い人たちに限っていえば、若い人たちの「絶望」は本当の絶望ではないからだ。どのような状況でも、若い力は肯定的なものである。逆に、そうですらなければ、もはや人類はオシマイであろう。いや、主語が大きくなりすぎたな。

図書館から借りてきた、小林信彦『最良の日、最悪の日』読了。いや、おもしろくて滋養分もたっぷりで、よいエッセイ集だなあ。「本音を申せば」のシリーズの、まだ二作目だろうか。本書を読んでつくづく思うのは、著者のような人こそ都会人だということだ。まあ、わかる人にはわかるだろう。わたしのことなどどうでもいいといえばそうなのだが、一応書いておくとわたしは根っからの田舎者で、これは別に自己卑下でも何でもない。それはそれでまた悪くないところもあるので、ただ本物の都会人というのは、自然と文化・教養というものが身についているものなのである。逆に、そうでない人は都会人でも何でもなく、わたしが読んできた人たちの中では、蓮實重彦とか浅田彰といった人たちが、わたしのいう都会人である。じつにわたしにある「教養」らしきものは、田舎者がガンバッテ身に付けたもので、自然と身に付いたようなものではあり得ない。まあぐちゃぐちゃと書いたが、本書は楽しい上に、お勉強(またか!)にもなってとってもよろしく、例えばまだ十代の美少年・松田龍平のエロティシズムの描写などは、じつに慧眼で目を奪われてしまったりするのだ。おわかりであろうが、こういうのが文化なのですよ、皆さん。一方都会人には政治を語ることだって許されていて、本書には我々にもわかるようにしっかりと小渕内閣批判が書き込んである。しかし小渕内閣批判とは、何と牧歌的な話であるか! これで戦後最悪! 最近のクロニクルで小林さんが何を仰っているのか、手元に持たないわたしはよく覚えていない。そういや、インターネットについては何か言及があっただろうか。それも覚えていない。
 本書では戦争に関する吉本さんの本について何箇所か言及があって、小林さんは吉本さんの盲目的追従者ではないけれど、小林さんにはめずらしく「必読」とされている。わたしもまた吉本さんの盲目的追従者ではないが、本書に引用されている吉本さんの言葉にはハッとさせられるところが少なくなかった。これは(たぶん)自分ももっている本なので、あとで探してちょっと拾い読みでもしてみよう。

最良の日、最悪の日

最良の日、最悪の日

 
上に挙げた吉本さんの本を読み始めたら、少し拾い読みのつもりが一気に三分の一ほど読んでしまった。吉本さん晩年のインタビュー本であるが、吉本さんは軍国青年であった、それが根底にあって徹底的に考え抜かれている。吉本さんにわからないことははっきりわからないと言っている。わたしはまだちっとも根底的に考え抜いていない、それがよくわかった。まだまだである。

図書館から借りてきた、伊藤比呂美『女の絶望』読了。ああ、笑った笑った。でしみじみもした。伊藤さんは実際に新聞で人生相談をやっていて、本書は人生相談本に見えるけれども、むしろ小説(あるいはそうは見えなくても詩)と見做すべきである。本書の「しろみ」さんは明らかに伊藤比呂美さん本人ではない。けれども、フィクションだからこそ真実だというのが本当だと思う。伊藤さんは女だから、女の煩悩というか業というかが書き尽くされた、古今東西に類書がない程の傑作小説であろう。まさに『女の絶望』の題そのものである。しかし、本書はわたしのような「人生を生きたことがない」達人(笑)か、女の絶望に生きていて耐えきれない女性しか、読んではいけないのかも知れない。幸せな人が読んだら、文字の書かれた紙に火がついてメラメラと燃え上がるであろう。まさに人間は煩悩の塊、本書は現代に書かれたありがたい仏典であり、一〇〇年の後には青臭い坊主どもによって霊験あらたかな仏説として密かに唱え続けられるにちがいない。ありがたやありがたや。

女の絶望

女の絶望

松家仁之『光の犬』

晴。のち雨。
午前中は睡眠の後始末でおしまい。

古いダイアリーをマージしたので、昔書いた理系記事に検索でお出でになる人が増え、何だかなあという感じ。何でこの程度の記述にと思うが、わからないなあ。意外とネット上にないのかなあ。それともたまたまかなあ。高校か、せいぜい大学の一、二年生程度のものですよ。

このところ理系の本はほとんど読んでいないが、読まないというつもりでもない。ま、プログラミングは必ずしも理系とはいえないが、理系の知識があった方がよりプログラミングを楽しめるのはそうだと思う。競技プログラミングは理系の知識がないと無理なものも少なくない。競プロをやっているのはプログラマのほんの一部ではあるけれど。

図書館から借りてきた、松家仁之『光の犬』読了。うーんという感じ。(以下ネタバレします。)僕は小説を読んで後悔するというようなことはほとんどないが、本書はそうだったかも知れない。確かに力作である。若い人の癌での死。これでもかと描写されるボケ・認知症キリスト教の真摯。良質の文章で、現代をよく切り取った傑作かも知れない。しかし、結局自分には文学というものはどうでもよく、あまりにも単純素朴な読み方でしか小説を読めないと観念した。正直言って、自分には本書は陰惨すぎる。何でこんな陰惨な小説が平気で書けるのか、自分にはわからない。もちろん自分がナイーブすぎるのだ、それはわかっている。本書のヒロインともいうべき、魅力的な女性である歩を、こんな風に死なせるというのは、小説家ってのはすごいものだ。また、石川毅のエピソード。会ったことのない母親を恋うて雪の夜に飛び出した彼の凍死は確かに読者に深い印象を与えるのであるが、そもそも薄幸であった彼をこのような仕方で殺すことに、本書の中でどれほどの意味があるのか。文学的効果は見事かも知れないが、自分は目を背けたい感じがしてしようがなかった。よい文体で書かれたすぐれた文学であることはあるいは認めざるを得ないかも知れないが、じつにイヤな読後感だった。そう、優れた文学は人をイヤな気持ちにさせる、その理屈から言ったら本書は傑作である。

光の犬

光の犬

自分が本書で唯一感心したのは、独身を通し続ける妖怪のような三人姉妹の描写である。じつにグロテスクで、本書ではいちばんのリアリティを感じた。著者はこの路線を発展させてほしいものである。

しかし思うが、人生などつまるところは生まれて苦しんで死ぬだけではないか。何で小説という器で、わざわざこんな陰惨な人生と向き合わねばならぬのか。本書が楽しめる人は、よほど幸せな人生を送っておられるにちがいない。わたしなどは、日々の中でささやかな幸せが少しでも得られればそれで満足である。

いまちょっとアマゾンのレヴューを見て、絶賛の嵐であることを確認した。やはりわたしがおかしいらしい。わたしは本書に涙するにはあまりにもナイーブで、我慢ができなかった。むしろ怒りすら感じたことをお断りしておく。

伊藤比呂美さんの人生相談本を読む。爆笑に次ぐ爆笑。かと思うと突然ホロリとさせられたりするので、油断がならない。伊藤さんは本当に「生きている」という感じだな。わたしが「人生などない」で伊藤さんは「人生しかない」と正反対なのかも知れないが、意外に両極端は一致しているのかも。まさにわたしの大好きな野蛮人だ。

こともなし

晴。
今日はふつうに早起きして午前中はたっぷり時間があったのだが、気分的に何もしたくない。これは仏教的な「無」とか無念無想とか、そういう小むづかしいこととは関係がないので、きちんと働いている方なら日々のルーチンワークをする、そういう感じでいたいということである。家事も老母がやってしまうし、何にもルーチンワークをすることがないというのははっきりいってアカンので、とにかく余計な(それこそ小むづかしい)観念とかつまらぬメロディとか、そんなものばかりを意識したくない。まあ、この複雑な世の中でしこしこ働くのもウンザリなのではあって(もう充分働いた気がする)、何だか人類は自業自得的な落とし穴にハマった気がしてならない。江戸の町人の労働時間は一日三時間だったともいうが、そこから我々は完全に後退している。まあしかし、働いている人エライ、天才!っていっておくか。もちろんわたしはクズである。存分に軽蔑してくれたまえ。

しかし、部屋に安住していられないのが諸悪の根源なのだとパスカルは言ったが、インターネットこそが現実になった現在、部屋に垂れ罩めているヒマ人がもっとも世界に直結しているかも知れない世の中になってしまった。わたしは部屋に居ると世界人になりかねないので、せめてこの田舎の日の当たる庭でぼーっとしているのが本来的でありたい感じ。いくらインターネットが広大だといっても、小さな庭(ミクロコスモス!)の蔵する無限には決して敵わない。高度成長期の東京の住人は、狭い敷地に猫の額のような庭を作らずにはいられなかったが、それを揶揄した開高健はその深い知恵には気づかなかったようだ。澁澤龍彦林達夫に庭園の叡智を見たのである。ちなみにいま近所に雨後の筍のようにぼこぼこできる今風のおうちには、ことごとく「庭」というものがない。花壇すらもない。ただガランとした空虚があるだけ。おそらく手入れをするヒマもないのであろうが、さすがに現代であるとわたしはその象徴性の暗合に驚かされるのである。

またつまらぬことを書いたな。

昼から「ひぐち」へ行こうと思ったのだが、あんまりいい天気なので電車に乗りたくなる。なので途中で車の向きを変え、旧中山道経由で市民公園へ、三時間まで無料の駐車場に駐めて、各務原市役所前駅から名鉄犬山線に乗る。そのつもりはなかったのでカメラを持ってこなかったのはちょっと残念。お供は松家仁之の『光の犬』である。
 わずか15分程度で犬山着。ここで降りるのは初めてである。駅前にファーストフードのチェーン店でもないかと探したが、駅中にロッテリアがあるくらい。犬山はもっと大きい街かと思っていたのだが、いまはどこでも駅前は景気がよくないようだ。最初東口をうろうろし、ついで西口も行ってみるが、何ということもなし。あくまでも犬山には本を読みに来ただけなので、東口の CASTA(キャスタ) 内にある「CAFE PROSPERE」に入る。ブレンドコーヒーLサイズ380円でお安いのだが、大した味とも思えない。個人的にはミスドのコーヒーの方が好きである。
 さて、松家仁之『光の犬』を読む。僕はこの小説家とは相性が悪く、『火山のふもとで』はまずまず、『優雅なのかどうか、わからない』ははっきりと下らない小説だと思ったのだが、この『光の犬』はこれまでの中ではもっとも期待できそうな感じ。この小説家はきれいで透明な文章がいちばんの特徴で、特にそこに魅力と(わたしの場合は)懸念があるのだが、本書もそれはいままでどおりである。最初の 100ページほどを読んだ印象では、北海道での家族三代を扱った、大河小説っぽい感じがする。ただ、これはわたしの弱点なのだが、「人生」を扱った小説みたいなものはいまひとつ苦手だ。本書がそのあたりどうなるのか、これからの展開を楽しみにしている。既に主要な登場人物のひとりと思われるキャラクターが死ぬことが暗示されている。


山形さんが柳下毅一郎氏の「統計捏造」発言に端を発した、まあちっぽけなネット上の「炎上」に対して、(ひさしぶりの)ブログエントリに山形さんらしい啓蒙的文章を書いておられるが、はてブを見たらあんまり予想どおりのバカバカしさなので呆れる(もう絶望する気もなし)。こんなに論理的かつわかりやすく丁寧に書かれているのに(まるで小学生を相手にしているくらい丁寧だ)、これでも読めてないやつの方が多いくらいだとは。これらの年齢層が気になるが、リテラシーも何もあったものではない。わたしは正確な論理で屁理屈などいくらでもいえるという立場の人間であるが、屁理屈にすらなっていない情けないコメが多すぎて何なのという感じ。僕はうんこな中沢新一信者であるが、山形さんのような人がここまでこれほどやってきたことに対して、こちらが何だか(まちがった)徒労感のようなものすら感じてしまう。じつに絶望的なことをやっておられるなあ。やはりリスペクトせざるを得ない。

もー、いまだに「アベノミクスはまちがっている」という人がわんさかいて、自分の実感とか持ち出してよろしくやっておられるが、目の前に石ころがあってもその石ころが見えていないという、いや恐ろしいですな。まったく、真剣に安倍政権を何とかしたい人たちに、そういう人たちは背後から発砲してきて、いったい何がしたいのだという感じ。安倍政権を利するにもほどがあるといいたい。ま、ほんとリテラシーを身につけるって無理ですな。僕が「熟議民主主義」とか夢物語というか、寝言にすぎないと思ってしまうのはそこである。そもそも、ほとんどの人は論破されるとむかついて、もうそうなると絶対に論理と事実に耳を傾けることはなくなる*1。そういうことは、自分は若い頃から散々見てきた。それはエリートでも同じだ。

まあこれは人の意見を知ったかぶりしていうが、アベノミクスつったって、ぶっちゃけ成功したのは金融緩和政策だけですよ。それだけでこれほどの長期政権になったので、それまでの政策がひどすぎたということだ。アベノミクスを超える政策なんていくらでも可能なことはわかっていて、実際安倍政権も消費増税という愚策を断行しようとしている。わたくしの理解はこんなもんです。たったこれだけで、もちろん人の意見を自分で納得したにすぎない。全然自分オリジナルな意見でも何でもなし。もちろん、まちがっていたらさっさと意見なんぞ変えます。わたしなどその程度の者にすぎない。

しかし、物理学ですらいまだに「(特殊)相対性理論はまちがっている」という素人がわんさかいるので、それを思えばアベノミクスくらい、まあそう不思議でもないだろうなあ…って納得していいのかなあ…。例えば電磁気学を正しいと認めたら、(特殊)相対性理論を認めないことは無理がある*2のだが、彼ら彼女らは絶対に認めないのだよなあ。すげーって感じ。ひさしぶりにそんなことを思い出したりする。

ついでにいうと、一般相対性理論がまちがっているという人があまりいないのは、「(特殊)相対性理論はまちがっている」というくらいの粗雑な頭では、既に理解することすらむずかしいせいもあるだろう。さすがにテンソル解析あたりは、高校レヴェルの数学ではちょっと無理である。

NML で音楽を聴く。■バルトーク弦楽四重奏曲第一番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

 
しかし今日はつまらぬことをたくさん書いたな。正義派ぶってちょっと嫌な感じ。ときどきこういう愚行をしてしまう。

『光の犬』半分ほど読んだ。かなりおもしろい。あまり賢しらなことを言いたくない感じ。(AM00:45)

*1:というか、多くの人が自分が論破されていることに気づきもしない。わたしの子供の頃、「お前はすでに死んでいる」という決めセリフのマンガがあったが、既に自分が死んでいることに気づかないゾンビちゃんが多数である。こういう人たちはまさに不死身で、絶対に論破されない。笑える。

*2:ちょっと専門的な話になるが、実際にアインシュタイン特殊相対性理論の具体的な着想を得たのは、電磁気学の考察からである。特殊相対性理論の最初の論文の題名は、まさに「運動する物体の電気力学」なのである。