松家仁之『光の犬』

晴。のち雨。
午前中は睡眠の後始末でおしまい。

古いダイアリーをマージしたので、昔書いた理系記事に検索でお出でになる人が増え、何だかなあという感じ。何でこの程度の記述にと思うが、わからないなあ。意外とネット上にないのかなあ。それともたまたまかなあ。高校か、せいぜい大学の一、二年生程度のものですよ。

このところ理系の本はほとんど読んでいないが、読まないというつもりでもない。ま、プログラミングは必ずしも理系とはいえないが、理系の知識があった方がよりプログラミングを楽しめるのはそうだと思う。競技プログラミングは理系の知識がないと無理なものも少なくない。競プロをやっているのはプログラマのほんの一部ではあるけれど。

図書館から借りてきた、松家仁之『光の犬』読了。うーんという感じ。(以下ネタバレします。)僕は小説を読んで後悔するというようなことはほとんどないが、本書はそうだったかも知れない。確かに力作である。若い人の癌での死。これでもかと描写されるボケ・認知症キリスト教の真摯。良質の文章で、現代をよく切り取った傑作かも知れない。しかし、結局自分には文学というものはどうでもよく、あまりにも単純素朴な読み方でしか小説を読めないと観念した。正直言って、自分には本書は陰惨すぎる。何でこんな陰惨な小説が平気で書けるのか、自分にはわからない。もちろん自分がナイーブすぎるのだ、それはわかっている。本書のヒロインともいうべき、魅力的な女性である歩を、こんな風に死なせるというのは、小説家ってのはすごいものだ。また、石川毅のエピソード。会ったことのない母親を恋うて雪の夜に飛び出した彼の凍死は確かに読者に深い印象を与えるのであるが、そもそも薄幸であった彼をこのような仕方で殺すことに、本書の中でどれほどの意味があるのか。文学的効果は見事かも知れないが、自分は目を背けたい感じがしてしようがなかった。よい文体で書かれたすぐれた文学であることはあるいは認めざるを得ないかも知れないが、じつにイヤな読後感だった。そう、優れた文学は人をイヤな気持ちにさせる、その理屈から言ったら本書は傑作である。

光の犬

光の犬

自分が本書で唯一感心したのは、独身を通し続ける妖怪のような三人姉妹の描写である。じつにグロテスクで、本書ではいちばんのリアリティを感じた。著者はこの路線を発展させてほしいものである。

しかし思うが、人生などつまるところは生まれて苦しんで死ぬだけではないか。何で小説という器で、わざわざこんな陰惨な人生と向き合わねばならぬのか。本書が楽しめる人は、よほど幸せな人生を送っておられるにちがいない。わたしなどは、日々の中でささやかな幸せが少しでも得られればそれで満足である。

いまちょっとアマゾンのレヴューを見て、絶賛の嵐であることを確認した。やはりわたしがおかしいらしい。わたしは本書に涙するにはあまりにもナイーブで、我慢ができなかった。むしろ怒りすら感じたことをお断りしておく。

伊藤比呂美さんの人生相談本を読む。爆笑に次ぐ爆笑。かと思うと突然ホロリとさせられたりするので、油断がならない。伊藤さんは本当に「生きている」という感じだな。わたしが「人生などない」で伊藤さんは「人生しかない」と正反対なのかも知れないが、意外に両極端は一致しているのかも。まさにわたしの大好きな野蛮人だ。