平野栄久『開高健 闇をはせる光茫』

晴。
空疎感がすごくて精神に養分を注入してやらないといけない。言葉も全然出てこない。

午前中、散髪。いい天気もあってさっぱりした。

カルコス。角川選書を一冊買う。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー399円。やはりコーヒーは270円でした。店によってちがうのかな? さて、最近文庫化された片山杜秀さんの音楽評論を読む。じつはこれ、元本である二冊の単行本をもっているのであるが、まあ気分で買ったものだ。高級漫談とでもいうか、読んでいてつい笑ってしまう。それに、片山杜秀さんはそれで有名なのだが、言っていることが常識はずれというか、わけがわからなくて、それもまったくおかしい。名前だけで聴いたことのない曲ばかり並んでいるし、そもそも名前すら知らない作曲家や演奏家や曲がバンバン出てくる。これを読んでいると、自分の耳がじつに保守的なことに気付かされ、ちょっと愉快でない。片山杜秀は自由なのだ。それにしてもその論理のアクロバティックなことは大変なもので、ほとんどコジツケとしか思えないような理屈で攻めてくるのでそれも可笑しい。クライスラーのヴィブラートが猖獗を極めたのはじつは大都市化のせいだとか、謎の論理である。そもそも片山さんはまったく、驚くほど理屈っぽい。じつは論理で読み手をねじ伏せるタイプの書き手である。それだからこそ、かかるへんなというか、自由な音楽観が一般に受け入れられたのだ。しかしわたしなどは面倒な人間で、この頃は頓に音楽を言葉で語ることに嫌気がさしている(といいつつブログに書きすぎるのだが)。吉田秀和さんを読んでいてすらそうなのだ。これはもちろん、片山さんがいけないわけはなくて、自分がいけないのだが。とにかく、片山さんはすばらしいです。


NML で音楽を聴く。■リゲティの「アトモスフェール」、「ヴォルミナ」、「永遠の光(ルクス・エテルナ)」、エチュード第一番「ハーモニー」、「ロンターノ」、「ラミフィケーション」で、オルガンはゲルト・ツァッハー、指揮はクラウディオ・アバドピエール・ブーレーズ、他(NML)。

ATMOSPHERES/+

ATMOSPHERES/+

 
夕食をとりながらテレビニュースを見ていたら、橋本治さんの訃報が入ってびっくりした。享年七十。肺炎だという。まだ先日『小林秀雄の恵み』を読んでひどく感銘を受けたばかりなので、とても冷静に受け取れない。しかし早いとしかいえないな。あと二十年くらいはやってほしかった。あっさりしているのも橋本流なのか。またまともな人がひとりいなくなった。

図書館から借りてきた、平野栄久『開高健 闇をはせる光茫』読了。本書については先日少し書いたが、他にさほど加えることはない。本書は開高のほぼすべての「文学的生涯」をカバーしているが、伝記的事実の発掘などを目的にしたものではなく、いわゆる(文学的な)「開高健論」に他ならない。わたしは、このような「○○論」というものを読まなくなって久しいし、もはやそれほどの興味はないのだが、本書の文学的判断というものはそれなりに信用してよいものであると思う。などとわたくしごときが何様であるが、著者が真剣に文学というものに向き合い、そこに喜びも悲しみも見出してきたひとであることは明らかである。いまの若い人にも「文学」を求める人は必ず居るが、それは数的にはもはや無視されるしかないレヴェルであるし、もはや著者のような人はほぼ絶えた。わたしが何をいいたいかというと、本書は何だかとてもなつかしかったのである。それに、わたしが若い頃熱中した読書体験を、この齢になって再び思い返すことになった。自分は著者より相当の年少である筈だが、開高だけでなく、本書に登場する作家や書物たちが、しみじみとなつかしかった。わたしは著者がどういう人であるかまったく知らないが、本書の中には著者自身に関する記述もあって、(不遜を許されたい)華やかとは程遠い、諦念の半生であったようにも読める。自分の打ち込んできたものを何とか後に残したい、そのような(わたしにはあるいは縁遠い)執着と自負を感じて、これもまたひとつの「文学」だなとも思った。何度も書くが、わたしのごときが何様であるけれども。
 さて、ここでわたしにとっての開高というものを書くべきなのかと思うが、何も書きたいことはない気もする。ただ、いまのような幼稚な時代に開高も何もないものだ。そんな気もするのだ。わたしもまた、ヒマ人が常時ネット接続し、どんどん幼稚化する自分自身をもてあましているようでもある。そして、どこに希望があるのかまったくわからない。他人からしたら、勝手に深刻してろというところでもあろうか。まあ、確かにマジメばかりではおかしくなるけれどね。ツイッターなんかでは、皆んなマジメすぎるしな。ホント、読む人は絶えまいが、開高、いまじゃどうしようもないよ。さて、何がいいたいのかわからなくなった。本書を出版した「オリジン出版センター」というのはわたしは初めて聞く名前である。初版は1991年、開高健の死後二年を経て出版された。アマゾンには登録されていない。わたしはたまたま市図書館の書架に見つけて読んだのである。それは、どのくらいの確率で起きたことなのだろう。そんなどうでもいいことが気にかかる。

はてなダイアリーをインポート、あるいはマージする

曇。
昨晩はまた明け方まで AOJ をやっていて、昼近くになって起き出す。考えなしにツイッターとかつい見てしまうと恐ろしく絶望的な気分になってくるので(精神の健康を考えたら見るべきでない)、AOJ で現実逃避するところはある。AOJ もいまやっているのは段々むずかしくなってきて、Ruby では数人の常連さん(?)が解けているだけ。自分も三分の一は解けない感じ。なので、すごく考えて一発で通ったりするとさすがにうれしい。まあ、ホントいい加減にしておけなのですけれど。


昼からボタ雪が降ってくる。
はてなダイアリーが今日で更新できなくなることもあって、最初のアカウントで書いていたダイアリーをはてなブログにインポートする。
obelisk1.hatenablog.comもう二年以上更新していないのだが、捨ててしまうのも何なので、いちおうインポートして、自分なりにカスタマイズしてみました。

さらにこのブログのダイアリーの部分もこのはてなブログにマージしました。本当はダイアリーの部分はそのままにしておきたかったけれど、仕方がない。リダイレクトの設定もおこなったので、もう旧ブログは見られません。


NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus I, II で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NML)。

Art of the Fugue

Art of the Fugue

アラン『わが思索のあと』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■レスピーギリュートのための古風な舞曲とアリア第三組曲で、演奏はイ・ムジチ合奏団(NML)。初めて聴く曲だが、ポピュラー曲かな。ところで、全然リュートは出てきませんよ。そういう曲なのかな。

レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲/バーバー:弦楽のためのアダージョ 他

レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲/バーバー:弦楽のためのアダージョ 他

■バーバーの弦楽のためのアダージョ op.11 で、演奏はイ・ムジチ合奏団(NML)。アメリカでは特殊なシチュエーションで流される、いわずと知れた(準公的)ポピュラー曲であるが、もともとは弦楽四重奏曲の緩徐楽章であった筈。作曲者はその使われ方にウンザリしていたと記憶している。イ・ムジチの演奏はあっさりしたもので、まあこれなら聴ける。

バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」で、指揮はクリストフ・フォン・ドホナーニ、クリーヴランド管弦楽団NML)。年齢を重ねるほどにバルトークはすばらしく思えるようになってきた。じつに、若い頃は全然わかっていなかったので、ただ有名だから聴いていただけだった(そうしたことは意外と大事だが)。まだまだバルトークから学ぶことはたくさんある。こんな自分でも少しずつは進歩しているようだ。なお、自分はドホナーニという指揮者は実力者だと思っている。

弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽

弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽

 

アラン『わが思索のあと』読了。森有正訳。

わが思索のあと (中公文庫プレミアム)

わが思索のあと (中公文庫プレミアム)

 
ショパンポロネーズ第四番 op.40-2、第一番 op.26-1、第二番 op.26-2、第三番 op.40-1、第六番 op.53 で、ピアノはラザール・ベルマン(NMLMP3)。■スクリャービンの三つの前奏曲 op.35、四つの前奏曲 op.37、四つの前奏曲 op.39 で、ピアノはドミートリー・アレクセーエフ(NMLCD)。

こともなし

晴。
昨晩は明け方まで AOJ をやっていた。そんなになるとは思っていなかったのだが、この問題Ruby で解いていて詰まってしまったのである。グラフの単一始点最短経路問題なので、まずはふつうに幅優先探索で実装したのだが、なんとメモリオーバーになってしまった。何か爆発的に経路が多いらしい。なので、確信はなかったけれど、ダイクストラ法に切り替えて実装する。それに手間どって時間を喰った。けれども、今度はタイムオーバーなのである。ちょっと Ruby では無理なのかも知れないが、まだダイクストラ法で優先度付きキュー(二分ヒープ)を使って実装するという方法などが残っている。しかしこれはやったことがないので、簡単に実装というわけにはいかない。まあできるとは思うが、疲れたのでさすがにそこで寝ました。だんだんむずかしくなってきて、少しずつしか進まない。これなどはどうやってもタイムオーバーで、Ruby で解けた人は誰もいないという有り様である。コードは正しいと思うのだが。これでも苦労したのだけれどなあ。

ダイクストラ法はノードの確定のさせ方がいろいろあるので、自分のやり方はまだ必ずしも効率的でない(毎回全ノードから探索している)。もっとも効率的な確定のさせ方はどうしたらよいか考える余地が(だいぶ)ある。

一時、雪。
NML で音楽を聴く。■ショパンポロネーズ第五番 op.44 で、ピアノはラザール・ベルマン(NMLMP3)。

モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノは田部京子、指揮は小林研一郎、日本フィルハーモニー交響楽団NML)。コバケンはふつうによい。田部京子さんはよくわからないのだが、自分のもっていない感受性をもっている可能性大。田部さんの CD はたくさん出ているな。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番、ピアノ協奏曲 第23番

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番、ピアノ協奏曲 第23番

モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番 K.331 で、ピアノは田部京子NML)。これもよくわからない。ふつうすぎるほどにふつうの演奏という印象なのだが。特に曲に対する思い入れのようなものも感じられない。

夕食後、アランを読みつつ寝てしまう。深夜起床。またアランを読む。

橋本治『小林秀雄の恵み』

晴。

NML で音楽を聴く。■シューベルトアルペジオーネ・ソナタ D821 で、チェロはヨーナタン・スヴェンセン、ピアノはフィリップ・シュトラウフ(NML)。この曲のこんなによい演奏はめったにないので、聴き終えて幸せである。アルペジオーネという、ほとんど使われることのない楽器のために作曲されたもので、チェロで演奏されるのがふつうだ。これもそう。シューベルト室内楽の中でももっとも美しい曲であり、もっとも危険な曲といってもよいだろう。ロストロポーヴィチブリテンの演奏で聴いてから、自分には特別なそれになった。

Schubert - Rachmaninoff / Jonathan Swensen, cello - Filip Štrauch, piano

Schubert - Rachmaninoff / Jonathan Swensen, cello - Filip Štrauch, piano

ブラームスのチェロ・ソナタ第二番 op.99 で、チェロはピエール・フルニエ、ピアノはフランツ・ホレトシェック(NML)。

■ネッド・ローレム(1923-)の弦楽四重奏曲第四番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.380、K.13 で、ピアノはユンディ・リNMLCD)。じつに上手いものだが、まだまだ若いねえ。スカルラッティは本当にむずかしい。きれいに弾くだけではダメなのだ。

コメダ珈琲店那加住吉店。たまにはちがったところでと思ったが、コメダじゃあ同じようなものか。たっぷりブレンドコーヒー520円を頂いたが、ミスドの270円(あるいは194円)のよりもおいしくないのだもの。うーんという感じ。店内はほぼ空いたテーブルがないくらいの混雑ぶりだが。
平野栄久という人の『開高健 闇をはせる光茫』という本を読む。これ、知られた本なのだろうか、自分はまったく無知だが、読み始めて文体が固くて読みにくく、どうもおもしろくないと思う。しかし、読んでいるうちに逆なのだと気づいた。文体が固くて読みにくいのは著者の実力のあらわれで、じつはおもしろいのだ。文学的な判断も信用できるもので、安心して読める(?)とわかった。冒頭に開高の『ベトナム戦記』に対する吉本隆明三島由紀夫の酷評について論じてあるが、これはなかなかおもしろい問題である。吉本も三島も文学的な器の大きさは開高とは比較にならぬもので、開高はさほどのものではないとわたしは判断するが(何様)、また自分の同情はというと、はっきり開高にあるのを感じた。自分は三島はともかく、吉本さんはいまでもしきりに読み続けているが、吉本さんは開高とは資質がまったくちがう。吉本さんの姿勢はごくふつうの生活人の延長線上にあり、その判断は常にその地点からなされるのに対し、開高は文学者として特権的地位にあり、原理的にみずからを一般人として規定できない。だから、正しさでいえばまったく吉本さんが正しいのであるとしかいいようがないのであるが、それでも自分の同情が開高にあるのは不思議なものだ。これは論理では説明のつかないことであるが、まあ正直言ってそんなことはどうでもよいのである、わたしには。
 それから、例えば大江健三郎などに比べて、「開高健論」のあまりにも少ないこと。これも実感としてよくわかる。自分は若い頃開高に多大な影響を受けたが、かつてもいまも「開高健論」など書こうと思ったことがない。開高健に謎がないわけではないが、書いてみたいような謎はなく、開高はその素材のほとんどを自分の中で消化し切っていて、そのような題材しか書いていない(と言い切るとレトリックになってしまうか)。「論」にするような未熟なものを、開高はほとんど残していないように思える。だから開高についての文章というと、伝記的な事実の探索など、そういうことになるのであろう。
 しかし、自分は開高は吉本隆明三島由紀夫に比べて小さいと思うけれども、いま、あるいはこれから若い人たちに読まれるということであれば、これは逆に圧倒的に開高だと思う。自分は、ふつうの文学好き(?)に、開高は読まれ続けると予想している。いまでも生前に比べれば文庫本など入手できなくなっているが、読む人はきっと読むにちがいない。
 ありゃ、思ったよりつらつら書いてしまったな。まあそんなで、ぼちぼち続きを読みます。なお、本書はアマゾンに(古書としても)登録されていないようだ。そうなのか。

付け加えておけば、開高もその著名な親友であった谷沢永一も、「思想」というものがまったく、毛ほどもわからない人たちであった。かかる欠落のすがすがしさのようなものが開高にはあるように感じられる。谷沢はまたちょっとちがうけれども。逆にいうと、「思想」というものが気になる人は開高の評価は限定付きのものにならざるを得まい。

図書館から借りてきた、橋本治小林秀雄の恵み』読了。とうとう読み終えたのだが、最終的に何を書いたらよいのかわからない。今日読んだのは第九章、第十章と終章であるが、橋本治の舌鋒はますます鋭い。小林秀雄の理解が足りないところを徹底的に延々と剔抉し続けている。といっても、残念ながら自分の能力が完全についていけてない。知識教養だけでなく、橋本治の理解力と精妙極まる論旨の展開が理解しきれない。で、橋本治の感動はどこかへ行ってしまったのか。それがむずかしいので、橋本治小林秀雄への論難を一段落させると、自分の感動がやはりニセモノでなかったのもはっきりと掴んでいるのである。なので、本書を書く理由(というか編集者にハメられた顛末)とか、どうでもよさそうなことにかまけ出してまたその理由とやらを探索に乗り出すのだが、もはやわたしは何をいってよいのかわからない。ごめんなさい、わたしの頭にはムリですという感じ。しかし、小林秀雄が言いたいのは結局、読む(見るでも聴くでもよいが)に値するものを読めってことだ、それ以外にはないとか言われると、まあ確かにそれはこちらも納得できるのだが、そりゃわかりやすすぎるので、そんなことなら本書一冊書くまでもない。小林秀雄とはトンネルを掘ってさっさと先へ行ってしまった人物だとかいうのも同じようなことで、橋本治ほど明敏な人でも、結局本書を書いたことにはそんな理由しかつけられなかった。そこらへんが、何とも「小林秀雄的」な感じもする。
 さても、大変な読書であった。終章は橋本治らしくもなく(いろいろ言い訳しているが)、第十章を書き上げてから松阪の本居宣長の墓を訪ね、海の見える墓地であったことでおしまいにしている。そして最後の二行は、明らかに『本居宣長』の最後を意識して、橋本治には異例な終わり方だ。つまりは、この『小林秀雄の恵み』はまた、ひとつの『本居宣長』でもあったことが(苦し紛れかも知れぬが)暗示され、わたしを深く首肯させるものがある。わたしは、それを感じ続けながらずっと本書を読んでいたといってよいのだと思う。

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み

 
それにしても、橋本治小林秀雄の難解さは、例えばカントの難解さとはちがう(いや、本当はよく似ているところもあるのかも知れないが、ひとまずそれは措く)。例えば東大に入っても直ちにカントがスラスラわかるというわけにはなかなかいかないが、カントの難解さは「哲学教師」による一応の「正解」があり、それはまた「教科書」にも書いてある。ガンバッテお勉強すればわからないことはない。しかし橋本治小林秀雄の難解さは、他人の理解は参考程度にしかならない。いや、いまや九割以上の日本の知識人が「小林秀雄の難解さに意味はない、そこには内容というものがなく、本来は空疎なものをはったりでごまかしているだけだ」という「解」に到達していると思われる。まあそれが正しいのか自分にはよくわからないので、だからわたしのような者は現在「中二病」患者とカテゴライズされるのであり、それは抗弁しても無駄なことである。別にわたしがつまらぬものにかまけて空疎な一生を送ろうが、放っておいて頂きたいものだと願っている。とか、オレ誰に言ってんの?

ところで、わたしはカントは好きなのである。お前なんかにわかるかといわれてもよいのだ。確かにそのとおり、よくわかっていないのだから。一方、現在の分析哲学なんかは、自分には全然おもしろくない。秀才の遊びというのならわかるが、とても本気でやっているとは思えないのだ。いやでも、本気でやっているのだよなあ、やっぱり。

こともなし

晴。
河合先生ではないが、思い上がっていると必ずこちらを打ちのめすようなことが起こるな。見事なほどそうだ。しかし、河合先生が思い上がることがあったというのは、まったく信じられぬというか、いや、怖い話だ。いつも、太陽にように満面の笑みを浮かべておられたのが写真から見たこちらの印象であるが。

昼食はモスバーガーのドライブスルーで。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、バセット・クラリネットはエリック・ヘプリック、他(NMLCD)。■ブラームスの二つのラプソディ op.79 で、ピアノはパスカル・ロジェNMLCD)。

モーツァルトのピアノ協奏曲第二十七番 K.595 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウス、指揮はカール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。この演奏はたぶん CD で聴いている筈だが(エーカゲンなものである)、終楽章でバックハウスがこれほど装飾音を付けて弾いているとは知らなかった。ちょっと意外である。バックハウス晩年の録音であるから、まあそっけないとでもいいたくなる演奏ぶりであるが、これこそがクラシック音楽であるという意見があればそれは正しいであろう。バックハウスの音の美しさとでもいうべきは、とっくに吉田秀和さんが指摘していてさすがである。こういう演奏を大事にしてきたのは、クラシック音楽好きのよいところであるにちがいない。さて、このようなものは若い人たちに通用するのであるか。やはり、美は不変なのか、そうでないのか。多少気になるところではある。

KLAVIERKONZERTE

KLAVIERKONZERTE

ルーセルのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.11 で、ヴァイオリンはエヴァ・バルト、ピアノはハインリヒ・バウムガルトナー(NML)。うん、思っていた以上におもしろかったぞ。30分もある、室内楽にしては長い曲であり、力作。最初はフォーレっぽいかとも感じたが、まあそういうわけでもないか。やはりフランスの作曲家らしい曲である。■ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノは園田高弘、指揮は大山平一郎、九州交響楽団NML)。この曲はもとよりわたしの偏愛するところであり、オーケストラによる序奏からしてマズいなと思っていたのだが、園田のピアノが入ってきたところでわっと泣けてきたのはさすがにセンチメンタルというか、我ながら常軌を逸していると思う。まあしかたがない。何か、日本人の無意識とでもいうような、面倒なものに関係しているのだろうと推測はする。しかし、聴き手によってはクソマジメな、退屈な演奏という人もいるかも知れない、そんなものかも知れないのだが、いずれにせよそういうことは自分にはよくわからない。多少冷静に書くなら、ピアノ、オケ共に低音のよく響いている、迫力ある第一楽章が特にすばらしいと思う。ピアノもオケも本当に、どこへ出しても恥ずかしくない、しかも日本的であるといいたい名演だ。「日本的」というのは、楷書を崩さず、しかも深いセンチメントに届いた、まあある意味クソマジメな演奏を仮にそう呼んだだけで、他意はない。それにしても、何で園田のピアノはわたしにこうも感銘を与えるのか。ちょっと我ながら謎である。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■エドガー・メイヤー(1960-)の弦楽五重奏曲で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団コントラバスエドガー・メイヤー(NML)。

String Quartet 4

String Quartet 4

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十六番 op.31-1 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。何というか、聴いていて啞然としてしまった。僕はこの曲はベートーヴェンの中ではまあつまらない方の曲だと思っていたのだが。だからそれほど真剣に聴いたことはないと思うのだけれど、園田の演奏は、これは何だこれという感じ。ちょっと大袈裟にいうと、打ちのめされてしまったというか。なるほど、これはいまのふやけた我々にわかる筈がない。誰も園田を聴かなくて当然だと納得されてしまった。しかし、NML の園田の録音は結構あって、全部聴くのは大変そうだが、やるしかないだろうな。■モーツァルトのデュポールのメヌエットによる九つの変奏曲 K.573 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■ニコライ・カプースチン(1937-)のフルート・ソナタ op.125 で、フルートはイマヌエル・デイヴィス、ピアノはティモシー・ラヴレース(NML)。カプースチンって全然知らなかったのだけれど、たくさん CD が出ているな。ホント、自分の無知に驚くわ。ただ、自分にはそれほどの音楽とも思えないのだが。もう少し聴いてみるかな。ちょっと洒落ているし、わかりやすくて聴きやすいしな。
Kapustin: Complete Chamber Works for Flute

Kapustin: Complete Chamber Works for Flute

 
ツイッターを見ていると自分のような何の専門家でもない、しかも能力のない人間はただの役立たずだとわかるのだが(そんなことは最初からわかっていたが)、役立たずでもまあまあまともな役立たずになることはなかなかむずかしいので、その方向でこれまで三〇年ぼちぼちやってきたのを続けるかなという感じ。人間のクズでも生きていてよいよねと思っている。まあ、世の中の片隅でひっそりとやっていこう。

しかし、皆んな自分の主張をわめきちらかして立派なものだな。僕には自分のオリジナルな主張などめったにありはしない。基本的に他人の意見を知ったかぶりしていうのみである。まさに人間のクズ。

凡夫一生修行。少しずつでも向上したいものだ。

延々と昼寝していた。
酒屋。