こともなし

晴。
今日はふつうに早起きして午前中はたっぷり時間があったのだが、気分的に何もしたくない。これは仏教的な「無」とか無念無想とか、そういう小むづかしいこととは関係がないので、きちんと働いている方なら日々のルーチンワークをする、そういう感じでいたいということである。家事も老母がやってしまうし、何にもルーチンワークをすることがないというのははっきりいってアカンので、とにかく余計な(それこそ小むづかしい)観念とかつまらぬメロディとか、そんなものばかりを意識したくない。まあ、この複雑な世の中でしこしこ働くのもウンザリなのではあって(もう充分働いた気がする)、何だか人類は自業自得的な落とし穴にハマった気がしてならない。江戸の町人の労働時間は一日三時間だったともいうが、そこから我々は完全に後退している。まあしかし、働いている人エライ、天才!っていっておくか。もちろんわたしはクズである。存分に軽蔑してくれたまえ。

しかし、部屋に安住していられないのが諸悪の根源なのだとパスカルは言ったが、インターネットこそが現実になった現在、部屋に垂れ罩めているヒマ人がもっとも世界に直結しているかも知れない世の中になってしまった。わたしは部屋に居ると世界人になりかねないので、せめてこの田舎の日の当たる庭でぼーっとしているのが本来的でありたい感じ。いくらインターネットが広大だといっても、小さな庭(ミクロコスモス!)の蔵する無限には決して敵わない。高度成長期の東京の住人は、狭い敷地に猫の額のような庭を作らずにはいられなかったが、それを揶揄した開高健はその深い知恵には気づかなかったようだ。澁澤龍彦林達夫に庭園の叡智を見たのである。ちなみにいま近所に雨後の筍のようにぼこぼこできる今風のおうちには、ことごとく「庭」というものがない。花壇すらもない。ただガランとした空虚があるだけ。おそらく手入れをするヒマもないのであろうが、さすがに現代であるとわたしはその象徴性の暗合に驚かされるのである。

またつまらぬことを書いたな。

昼から「ひぐち」へ行こうと思ったのだが、あんまりいい天気なので電車に乗りたくなる。なので途中で車の向きを変え、旧中山道経由で市民公園へ、三時間まで無料の駐車場に駐めて、各務原市役所前駅から名鉄犬山線に乗る。そのつもりはなかったのでカメラを持ってこなかったのはちょっと残念。お供は松家仁之の『光の犬』である。
 わずか15分程度で犬山着。ここで降りるのは初めてである。駅前にファーストフードのチェーン店でもないかと探したが、駅中にロッテリアがあるくらい。犬山はもっと大きい街かと思っていたのだが、いまはどこでも駅前は景気がよくないようだ。最初東口をうろうろし、ついで西口も行ってみるが、何ということもなし。あくまでも犬山には本を読みに来ただけなので、東口の CASTA(キャスタ) 内にある「CAFE PROSPERE」に入る。ブレンドコーヒーLサイズ380円でお安いのだが、大した味とも思えない。個人的にはミスドのコーヒーの方が好きである。
 さて、松家仁之『光の犬』を読む。僕はこの小説家とは相性が悪く、『火山のふもとで』はまずまず、『優雅なのかどうか、わからない』ははっきりと下らない小説だと思ったのだが、この『光の犬』はこれまでの中ではもっとも期待できそうな感じ。この小説家はきれいで透明な文章がいちばんの特徴で、特にそこに魅力と(わたしの場合は)懸念があるのだが、本書もそれはいままでどおりである。最初の 100ページほどを読んだ印象では、北海道での家族三代を扱った、大河小説っぽい感じがする。ただ、これはわたしの弱点なのだが、「人生」を扱った小説みたいなものはいまひとつ苦手だ。本書がそのあたりどうなるのか、これからの展開を楽しみにしている。既に主要な登場人物のひとりと思われるキャラクターが死ぬことが暗示されている。


山形さんが柳下毅一郎氏の「統計捏造」発言に端を発した、まあちっぽけなネット上の「炎上」に対して、(ひさしぶりの)ブログエントリに山形さんらしい啓蒙的文章を書いておられるが、はてブを見たらあんまり予想どおりのバカバカしさなので呆れる(もう絶望する気もなし)。こんなに論理的かつわかりやすく丁寧に書かれているのに(まるで小学生を相手にしているくらい丁寧だ)、これでも読めてないやつの方が多いくらいだとは。これらの年齢層が気になるが、リテラシーも何もあったものではない。わたしは正確な論理で屁理屈などいくらでもいえるという立場の人間であるが、屁理屈にすらなっていない情けないコメが多すぎて何なのという感じ。僕はうんこな中沢新一信者であるが、山形さんのような人がここまでこれほどやってきたことに対して、こちらが何だか(まちがった)徒労感のようなものすら感じてしまう。じつに絶望的なことをやっておられるなあ。やはりリスペクトせざるを得ない。

もー、いまだに「アベノミクスはまちがっている」という人がわんさかいて、自分の実感とか持ち出してよろしくやっておられるが、目の前に石ころがあってもその石ころが見えていないという、いや恐ろしいですな。まったく、真剣に安倍政権を何とかしたい人たちに、そういう人たちは背後から発砲してきて、いったい何がしたいのだという感じ。安倍政権を利するにもほどがあるといいたい。ま、ほんとリテラシーを身につけるって無理ですな。僕が「熟議民主主義」とか夢物語というか、寝言にすぎないと思ってしまうのはそこである。そもそも、ほとんどの人は論破されるとむかついて、もうそうなると絶対に論理と事実に耳を傾けることはなくなる*1。そういうことは、自分は若い頃から散々見てきた。それはエリートでも同じだ。

まあこれは人の意見を知ったかぶりしていうが、アベノミクスつったって、ぶっちゃけ成功したのは金融緩和政策だけですよ。それだけでこれほどの長期政権になったので、それまでの政策がひどすぎたということだ。アベノミクスを超える政策なんていくらでも可能なことはわかっていて、実際安倍政権も消費増税という愚策を断行しようとしている。わたくしの理解はこんなもんです。たったこれだけで、もちろん人の意見を自分で納得したにすぎない。全然自分オリジナルな意見でも何でもなし。もちろん、まちがっていたらさっさと意見なんぞ変えます。わたしなどその程度の者にすぎない。

しかし、物理学ですらいまだに「(特殊)相対性理論はまちがっている」という素人がわんさかいるので、それを思えばアベノミクスくらい、まあそう不思議でもないだろうなあ…って納得していいのかなあ…。例えば電磁気学を正しいと認めたら、(特殊)相対性理論を認めないことは無理がある*2のだが、彼ら彼女らは絶対に認めないのだよなあ。すげーって感じ。ひさしぶりにそんなことを思い出したりする。

ついでにいうと、一般相対性理論がまちがっているという人があまりいないのは、「(特殊)相対性理論はまちがっている」というくらいの粗雑な頭では、既に理解することすらむずかしいせいもあるだろう。さすがにテンソル解析あたりは、高校レヴェルの数学ではちょっと無理である。

NML で音楽を聴く。■バルトーク弦楽四重奏曲第一番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

Bela Bartok: The 6 String Quartets - Emerson String Quartet (1990-05-03)

 
しかし今日はつまらぬことをたくさん書いたな。正義派ぶってちょっと嫌な感じ。ときどきこういう愚行をしてしまう。

『光の犬』半分ほど読んだ。かなりおもしろい。あまり賢しらなことを言いたくない感じ。(AM00:45)

*1:というか、多くの人が自分が論破されていることに気づきもしない。わたしの子供の頃、「お前はすでに死んでいる」という決めセリフのマンガがあったが、既に自分が死んでいることに気づかないゾンビちゃんが多数である。こういう人たちはまさに不死身で、絶対に論破されない。笑える。

*2:ちょっと専門的な話になるが、実際にアインシュタイン特殊相対性理論の具体的な着想を得たのは、電磁気学の考察からである。特殊相対性理論の最初の論文の題名は、まさに「運動する物体の電気力学」なのである。