四方田犬彦『マルクスの三つの顔』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十五番 K.385 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。いわゆる「ハフナー」。安心して聴けるスタンダード。

ハイドンのピアノ・ソナタ第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNMLCD)。■ハイドンオーボエ協奏曲ハ長調 Hob.VIIg:C1 で、オーボエハインツ・ホリガー、指揮はデイヴィッド・ジンマンコンセルトヘボウ管弦楽団NML)。オーボエとオケの録音のバランスがよくない感じがする。ホリガーはあいかわらず蕩けるようなレガートであるが、オーボエ奏者も指揮者もちょっとモーツァルトと勘違いしているのではないかというようにも聴こえる。まあ気にしすぎかも知れない。

Trumpet Concerto / Horn Concerto 1 / Oboe Concerto

Trumpet Concerto / Horn Concerto 1 / Oboe Concerto

  • アーティスト: Academy of St Martin in the Fields,London Philharmonic Orchestra,Joseph Haydn,Michael Haydn,Neville Marriner,Iona Brown,David Zinman,Elgar Howarth,Amsterdam Concertgebouw Orchestra
  • 出版社/メーカー: Decca Import
  • 発売日: 2000/09/13
  • メディア: CD
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雨になる。
珈琲工房ひぐち北一色店。四方田犬彦マルクス本を読む。マルクスといっても三人(あるいは五人)のマルクスで、その三人とはマルクス・アウレーリウス、カール・マルクスマルクス兄弟である。三題噺ということであろうか。いかにも、また四方田犬彦が才知をひけらかしていると思われるだろう。とにかく図書館の書架にあったので借りてみた。
 とりあえずマルクス・アウレーリウスの分を読んだ。マルクス・アウレーリウスは二世紀のローマ皇帝で、五賢帝の掉尾を飾る、いわゆる「哲人皇帝」である。二世紀のローマは最盛期を過ぎ、ローマ帝国の広大な版図が次第に東方の敵や蛮族らの侵入によって頻繁におびやかされる時代になっていた。マルクス・アウレーリウス帝はストア哲学に傾倒し、辺境を転戦しながら後に「自省録」と呼ばれるようになる自分のための哲学的覚え書きを書き残すことになる。爾来本書は後世にあって長く読み継がれ、日本語でも神谷美恵子の手によって翻訳されたものが、岩波文庫に収録されている。四方田氏は意外なことに若い頃からこの「自省録」を愛読し、しばしばそれによってみずから慰められたことを記している。文章のあり様はいかにも四方田氏で、マルクスを同時代の喜劇作家・ルキアノスと対比し、さらに当時勃興しつつあった「キリスト教」なる新宗教と「自省録」をからめて終えてみせるという、大変に才気煥発なものだ。自分の長年愛読してきたという書物をこのように才気で切り刻み、一篇の劇のように仕立てているというところがなんとも四方田氏である。哲学的な考察も怠りなく、とても尋常の人間に書けるものではない。さて、続けて読むことにしよう。

夕食後、寝てしまう。数時間寝て起床。

図書館から借りてきた、四方田犬彦マルクスの三つの顔』読了。本書について著者はなかなか面倒なことを言い、規定しているが、わたしはわたしの単純さゆえ素朴に(短い)感想を書こうと思う。いや、おもしろかったですね、この本は。本書においても著者の才気が充満している。この人は頭がよすぎて、これまで自分の能力を十全に発揮できる題材に巡り合わなかったし、それは本書でも同じことだと思われる。それえゆえ著者の書くものは常人には真似ができない高度なものであるにもかかわらず、著者はこれまでまあ何というか、多大な悪口ばかりを浴びせかけられてきた、そんな気がする。どことなく、いたずらな才気の誇示に見えてしまうのだ。
 しかし、わたしはそういうことはここでは封印したい。先にいっておくと、自分はマルクス兄弟について知るところは何もない。本書の該当部分はたいへんおもしろく読んだが、何もいうことはできない。マルクス・アウレーリウスについては上に書いたので、カール・マルクスについて少しだけ。いや、おもしろいですね、これは。四方田犬彦カール・マルクスに何の関係があるかまずは謎なので、著者がどういう切り口を見せるのか、興味津々だった。意外と正面突破の正攻法の部分もあって著者の能力の高さが誇示されるが、マルクスが若い頃に少なからず書いた詩に注目するところなど、著者の才気が際立っている。マルクスの詩はこれまでほとんど注目されたことがないと著者はいうが、そりゃそうでしょう。しかしそこからコジツケめいた伏線を張って、あとで回収してみせるところなどは見事なものだ。それから、マルクスにおける「ファンタスマゴリー」。この語は一時期はやった表象文化論の重要タームであるが、マルクスにもこの語が、それもかなり重要な部分に出てくるということで、これへの注目は著者のオリジナルなものなのかよくわからないが、これもさすがに四方田氏らしい。従来の日本語訳ではこの語は「幻影」と訳されていて、これでは特に注目もされない筈である。ちなみにこの訳語を「ファンタスマゴリア」に替えることを提唱したのは故・今村仁司氏だそうである。ここで表象文化論に言及する能力はわたしにはないので、ここは是非四方田氏の文章に当たってみられたい。それにしても、わたしもかつて一応マルクスに目だけは通したが、本書を読んでいて完全に自分の理解を超えているなと思った。四方田氏の頭のよさはすばらしいものである。
 さて、本書を読んでみて、読む前に予想していたとおり、三人(あるいは五人)のマルクスをここに集結してみせることに、ほとんど意味はない。ただ、四方田氏の才知の披露の場であるのみである。本書の最後の部分は、著者による一種のいいわけであり、韜晦にすぎまい。しかし高級エンタメとしては、本書はとてもおもしろいものではないか。そういう読み方は、四方田氏のよろこぶところではないかも知れないが。ただここでも、四方田氏はその全力を投入する対象にめぐりあったわけではなさそうである。はたして四方田氏は、一種の才人としてだけで終ってしまうのであろうか? しかし、わたしはそれでどうして悪いかと思ってしまうのでもあるが。楽しい本だった。(AM01:26)

マルクスの三つの顔

マルクスの三つの顔