こともなし

晴。
睡眠の後始末が延々と長い。

いまや極めて悪名高いユング心理学では「自我」と「自己」を区別するが、我々の思考や行動の大まかな方向は我々がほとんど意識することなく「自己」によって決定されており、「自我」のできることはいわば末端の「選択」 selection しかない。これを我々は「意志」だと思っている。けれども、その「選択」はじつに「自我」にしかできないこともまた事実で、つまり「自己」にそのようなことはできない。だから、わずかな「選択」を繰り返すことで広大である「自己」の方向を変えていくこともまた不可能なことではなく、これは希望が完全に失われることはないという「希望の原理」の根拠でもある。とわたしは考えるのだが、それは正しいのか?

まあ希望といっても、ある種の希望にすぎないが。

県図書館。どうもこのところリヒテルが聴けないので、車中ではずっと晩年のリヒテルの弾くハイドンソナタを BGM にしていて、思うところがあった。まったく作るところのない、素っ気ない淡々とした演奏なのだが、聴いているうち音がとても美しく感じられる。スタインウェイ的美音ではまったくないのだが(そもそもヤマハだし)。リヒテルは淡々と弾いているだけだが、やはり大変広大な精神であり、わたしもふやけたものだと感じる。あんまり若い演奏家ばかり聴いていてもダメだな。


梶谷先生の「ニューズウィーク日本版」のウェブ連載、第四回まで一気に読んだ。「監視社会」化が急速に進行する中国を念頭において、「監視社会」を論じた最近の学問的成果がわかりやすく丁寧にまとめてある、得難い論考である。というか、怠惰で不勉強なわたしは一読して目ん玉が飛び出るほどの驚きを感じた。恥ずかしい話だが、合理的に(?)納得してというよりは、めっちゃエモーショナルに反応してしまい、それはいまでも続いている。梶谷先生ではないが、「背筋が寒くなるような感覚」に襲われてそのままなのである。わたしのごときでも何とか読めるくらい、わかりやすく噛み砕いて書かれているので、かかる題材に多少でも興味のある方は、とりあえず一読をおすすめする。
中国の「監視社会化」を考える(1)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(2)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(3)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
中国の「監視社会化」を考える(4)──市民社会とテクノロジー | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
以下はテキトーな感想文なので、読む必要はありません。
 しかし、自分はこれまで「監視社会」というものをあまりマジメに考えたことがなかったが、恐ろしいまでの難問ではないか。僕は上の連載を読み始めてすぐに東さんの「情報自由論」を思い出したのだが、それは梶谷先生の論考でも明快に整理されていた。まあそれはどうでもよいのだが、「監視社会」ってのはつまるところじつは我々「市民」の望んでいることなのだという考え方はそのとおりで、それは「リスクを可能な限り減らす、できれば 0 にする」という、わたしの大嫌いな(というのはどうでもいいが)発想と不可分だと思う。「監視カメラのおかげでコンビニ強盗が捕まる、すばらしー」ってのは素朴だけれど容易には反論不可能な考え方で、我々はそれに対してべつだん違和感をもたないのがふつうであり、そんなそれで「監視社会」なんて大袈裟なと思ってしまいがちであるが、ホントここから「監視社会」まではじつはまっしぐらな一本道だ。それにしても、いまの学問的論潮では「監視社会」の到来を防ぐことは不可能で、あとはその監視のあり方のチェックしかないということになっているとは、マジですか?である。でも、梶谷先生の整理を読んでいると、ホントそれしかなく思えてくる。まったく、自業自得的なことになってきて、わたしのような古くさい人間はますます生きる希望を失ってしまう。
 梶谷先生の論考では先生の専門である中国の状況の普遍性と特殊性について突っ込んだ考察がなされており、いわば「監視社会先進国」である中国の現状は「監視社会」を考える上でまったく目が離せないことがよくわかる。ただ、議論がわたしの能力をだいぶ超えているのが本当に残念だ。そもそも、わたしは「市民社会」という西洋由来の考え方すらたぶんよくわかっていない。そこは梶谷先生の論考でも明快に整理されているし、まあ頭ではわかる気はするのだが、自分はこれまで生きてきてこれが「市民社会」なのだという具体物(?)に出会った気がしないのである。森鴎外には「サフラン」(だったよね? ちがったかしら)というエッセイがあって、鴎外は「サフラン」を文字でしか知らないという内容だった気がするが(いや、わたしの記憶違いかもしれないけれども)、わたしには「市民社会」ってのはそういう感じである。だから、ハーバーマスも頭でしかわからない(まあ、むずかしくて頭でもわからないが)。
 しかし、学者ってのはえらいものだな。でも、自分にはむずかしくってしようがない。知識も能力もなくて、ホントどうしろという感じ。「市民社会」っていうとわたしはその「市民」なのだろうが、「市民」さんには議論がむずかしくって、困りますよ。はたしてわたしはそんな「市民」でいいのか? わたしのような能力が低い人間はリスクだから、パージした方がよいとかならないだろうか?

ハイパーパノプティコン…。まったく我々は、どこまでいけば気が済むのか。勘弁してほしい。

わたしは空想するが、子供が生まれた時点で、まず最初に赤ちゃんの体に GPSタグが埋め込まれるような時代がそのうち来るのではないか。いや、そこまででなくとも、生まれた時点から GPSタグの入ったブレスレットを一生身に付け続けるとか。もはやそちらの方向へ行くのは不可避のように空想してしまう。それは、リスク回避の名目でなされるのだ。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第二十二番 Hob.XVI:24 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。昼に車中で聴いていたものが頭の中をぐるぐる廻っているので聴いた。何でこの曲なのだろう。

ハイドン:ピアノ&ソナタ第2番&第24番&第32番&第46番

ハイドン:ピアノ&ソナタ第2番&第24番&第32番&第46番