小林信彦『最良の日、最悪の日』 / 伊藤比呂美『女の絶望』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NML)。いわゆる「リンツ」。現代におけるスタンダードな演奏。

モーツァルト:交響曲第32番&第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」

モーツァルト:交響曲第32番&第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」

■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus III, IV, V, VI a 4 in Stylo Francese, VII a 4 per Augmentationem et Diminutionem で、ピアノはゾルターン・コチシュ(NMLCD)。

バルトーク弦楽四重奏曲第二番で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。


よい天気。市民公園の噴水がキラキラと光を鏤めてしばらく見とれる。
図書館。いつ頃からか、本屋も図書館もただ楽しいだけの場所ではなくなって、半分くらいは気の滅入る、そんな気持ちが混じっているのだが、今日は比較的マシだったのかも知れない。十冊も借りたのがその証拠だ。もちろん全部読むわけではなくて、半数はそのまま返すことになるのだが。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー。いま借りた秋山駿の『舗石の思想』を読み始めるも、あまりの下らなさに一瞬で放擲。もっとも、このマジメな文芸評論家を「下らない」で片付けてよいものか。文庫惹句に「<私とは何か>を徹底究明した代表的長編エッセイ」とあるが、わたしには「私とは何か」の追求など、あまり興味がないのだ。いや、もちろん自分のことなどどうでもいいというわけでもないのだが、どうもうまく言えない。本書はそのうち読み続けられたら読み直そう。
 もう一冊もってきていた、小林信彦氏の長期連載エッセイに切り替える。1999年度分と、もはや二十年も前のクロニクルで、わたしはこの頃のこと、時代の雰囲気をほとんど覚えていない。小林氏の文章はまだいかにも若々しく、自分にはちょっとはしゃぎすぎのようにも感じられ、最近のものの方が好みである。でも、そんなことは大した問題でもなく、おもしろく読む。この頃はバブル景気もとっくに崩壊し、1995年の阪神・淡路大震災オウム事件を経験したあとではあるが、まだまだ小林氏の辛口の文章も元気がよい。現在のもはやどうしようもない閉塞感がまだ見られず、興味深く思った。そうそう、まだインターネットも普及していない。本書には「ぼくたちは間違いなく、戦後最悪の時代に生きている」(p.46)で始まる一篇があるが、いま読むと少し微笑んでしまいたくなるくらいである。我々が現在知っているのは、この転落がどこまで続くか、その先も見えないということだ。我々はどこまで墜落していくのだろう。それともこれは、わたしという悲観主義者の妄想なのかも知れない。そうならばこんなに安心できることはない。

現在の閉塞感というのは、気分的なもの、あるいは「思想的」なものであろう。現実の経済状況に由来するものでは必ずしもなく、閉塞感が先にあって、それが経済的な観点に投影されている。いまでも根強い「アベノミクス失敗論」は、まさしくそれであろう。その意味では、かかる投影は理解可能なものである。
 しかし、その「閉塞感」はではどこから来るのか。わたしは大体のことはわかる気がするが、口にすることはためらわれる。それはどうしようもない認識で、我々から希望を確実に奪うからだ。ニセの希望でも、ないよりはマシである。それにまた、若い人たちに限っていえば、若い人たちの「絶望」は本当の絶望ではないからだ。どのような状況でも、若い力は肯定的なものである。逆に、そうですらなければ、もはや人類はオシマイであろう。いや、主語が大きくなりすぎたな。

図書館から借りてきた、小林信彦『最良の日、最悪の日』読了。いや、おもしろくて滋養分もたっぷりで、よいエッセイ集だなあ。「本音を申せば」のシリーズの、まだ二作目だろうか。本書を読んでつくづく思うのは、著者のような人こそ都会人だということだ。まあ、わかる人にはわかるだろう。わたしのことなどどうでもいいといえばそうなのだが、一応書いておくとわたしは根っからの田舎者で、これは別に自己卑下でも何でもない。それはそれでまた悪くないところもあるので、ただ本物の都会人というのは、自然と文化・教養というものが身についているものなのである。逆に、そうでない人は都会人でも何でもなく、わたしが読んできた人たちの中では、蓮實重彦とか浅田彰といった人たちが、わたしのいう都会人である。じつにわたしにある「教養」らしきものは、田舎者がガンバッテ身に付けたもので、自然と身に付いたようなものではあり得ない。まあぐちゃぐちゃと書いたが、本書は楽しい上に、お勉強(またか!)にもなってとってもよろしく、例えばまだ十代の美少年・松田龍平のエロティシズムの描写などは、じつに慧眼で目を奪われてしまったりするのだ。おわかりであろうが、こういうのが文化なのですよ、皆さん。一方都会人には政治を語ることだって許されていて、本書には我々にもわかるようにしっかりと小渕内閣批判が書き込んである。しかし小渕内閣批判とは、何と牧歌的な話であるか! これで戦後最悪! 最近のクロニクルで小林さんが何を仰っているのか、手元に持たないわたしはよく覚えていない。そういや、インターネットについては何か言及があっただろうか。それも覚えていない。
 本書では戦争に関する吉本さんの本について何箇所か言及があって、小林さんは吉本さんの盲目的追従者ではないけれど、小林さんにはめずらしく「必読」とされている。わたしもまた吉本さんの盲目的追従者ではないが、本書に引用されている吉本さんの言葉にはハッとさせられるところが少なくなかった。これは(たぶん)自分ももっている本なので、あとで探してちょっと拾い読みでもしてみよう。

最良の日、最悪の日

最良の日、最悪の日

 
上に挙げた吉本さんの本を読み始めたら、少し拾い読みのつもりが一気に三分の一ほど読んでしまった。吉本さん晩年のインタビュー本であるが、吉本さんは軍国青年であった、それが根底にあって徹底的に考え抜かれている。吉本さんにわからないことははっきりわからないと言っている。わたしはまだちっとも根底的に考え抜いていない、それがよくわかった。まだまだである。

図書館から借りてきた、伊藤比呂美『女の絶望』読了。ああ、笑った笑った。でしみじみもした。伊藤さんは実際に新聞で人生相談をやっていて、本書は人生相談本に見えるけれども、むしろ小説(あるいはそうは見えなくても詩)と見做すべきである。本書の「しろみ」さんは明らかに伊藤比呂美さん本人ではない。けれども、フィクションだからこそ真実だというのが本当だと思う。伊藤さんは女だから、女の煩悩というか業というかが書き尽くされた、古今東西に類書がない程の傑作小説であろう。まさに『女の絶望』の題そのものである。しかし、本書はわたしのような「人生を生きたことがない」達人(笑)か、女の絶望に生きていて耐えきれない女性しか、読んではいけないのかも知れない。幸せな人が読んだら、文字の書かれた紙に火がついてメラメラと燃え上がるであろう。まさに人間は煩悩の塊、本書は現代に書かれたありがたい仏典であり、一〇〇年の後には青臭い坊主どもによって霊験あらたかな仏説として密かに唱え続けられるにちがいない。ありがたやありがたや。

女の絶望

女の絶望