大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』 / J・L・ボルヘス『語るボルヘス』

曇。
昨晩は吉本さんの全集を読んで寝た。レヴィ=ストロースをきちんと訳さずにレヴィ=ストロースについて書かれたものばかり訳している日本のおふらんすに呆れているというか、絶望している文章があったが、フーコーの断片からレヴィ=ストロースをきちんと読み取っておられる。これがおもしろいのだよね。フランスの知識人たちに比較してバカにされてきた吉本さんであるが、ちゃんとレヴィ=ストロースの「構造」の意味と意義を理解しておられるのだもの。浅田さんみたいな人が吉本さんを一刀両断して廃棄してしまうのは、わかるとはいえとても残念な気がする。まあ、浅田さんは浅田さんで既に何も書きませんが(それも残念だなあ)。何を言っているのだろうね、自分は。

ああ、ふるくさいやつだな、こいつは。ってか。
 

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2-1 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。1976/10/16 Live. 何というカッコいい曲だろう。終楽章とか、カッコよすぎて泣けてくる。ベートーヴェン25歳頃の作曲か。まさしく、ここから始まるのだ、すべては。


モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、内田光子の弾き振り。

Linux Mint の Main Cinnamon menu がどこかへ行っちゃった。消した覚えはないのだけれど、うっかり操作ミスで消したのだろうか。まあ簡単に復活させられたからよかったけれど。

夕方、カルコス。おもしろい本を見つける能力が衰えてきているのではないかなあと我ながら思う。まあ買おうと思えば本などいくらでも買えるが、その買おうという気があまり起きなくなってきた。アンテナが錆びついてきたのだな。図書館は楽しいのだが。

大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』読了。副題「角川書店と教養の運命」。あはは、題だけ見たら何の本かわからないな。副題を見てもよくわからないけれど。大塚英志はずっと読んできたが、かつては結構夢中で読んだ気がする。本書はまあまあ。ただ、自分のほとんど知らない領域(角川歴彦川上量生!)の話で、若い人向きだから若い人は(大塚英志を毛嫌いせずに)読んでみるといいと思う。自分にはほとんどどうでもいい。ただ、最後の方、もう大塚英志の能力を超えていて、彼によくわからない事態を必死に(という姿は見せないが)感性で理解しようとするあたりは、結構おもしろかった。だから本書の最後の方は、上から目線の冷静でイヤミな大塚英志でははからずもなくなっていて、価値が高いかはわからないが、挑戦感があるように思う。

 

J・L・ボルヘス『語るボルヘス』読了。副題「書物・不死性・時間ほか」。木村榮一訳。

クロード・レヴィ=ストロース『はるかなる視線 2』

晴。好天。

午前中は特に何もしなかった。分裂気質に誘導する。

昼からひさしぶりに県営プール。ずっと泳いでいなかったのでスイッチが入るまで時間がかかった。一度慣れてしまえばちんたら泳ぐのもおもしろい。
そういえば水の中をゴーヤが泳いでいた。謎。

図書館から借りてきた、クロード・レヴィ=ストロース『はるかなる視線 2』読了。三保元訳。いまや誰も読まないレヴィ=ストロースであるが、でき得る限り読んでいくつもりだ。幸い、県図書館に訳書がかなり入っている。レヴィ=ストロースを読むと、あんまり現代のふやけた書物ばかり読んでいてはいけないなと思う。構造主義はとっくにポスト構造主義によって時代遅れになり、そのポスト構造主義も読む必要がないというのが現代の共通認識ではあるまいか。ってそれが正確には何のことなのか、自分にはよくわからないのだが。まあしかし、そんなことはいいので、思えば読むべき本を充分読んでこなかったな、自分はといわざるを得ない。いまからでは遅いのかも知れないが、まあやれるだけのことはやろう。

はるかなる視線 (2)

はるかなる視線 (2)

それにしても、レヴィ=ストロースを読む際のガイドが中沢さんしか見当たらない。いくら何でも他にもちゃんと読んだ人がいるだろうと思うのだが。しかし、山口昌男柄谷行人も、どうも自分には役に立たない感じだ。

レヴィ=ストロースは一二冊読んだだけではダメだ。著作が色いろ絡み合っている。そのことにもようやく気づいた。

しかしまあ、耐え難く古臭いといわれるのはわかっているのですけれどね。

関川夏央『家族の昭和』

日曜日。晴。起きて寒いくらい。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番 op.13「悲愴」で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。スタジオ録音? ピアノはまだヤマハでないように思えるが。


スクリャービンの三つのエチュード op.65 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。もっと聴きたいのですけれど、短すぎますな。


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第五番で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。もしかしたらこの曲は初めて聴くかも知れない。プロコフィエフのピアノ・ソナタは六、七、八(いわゆる「戦争ソナタ」)はよく聴くのだけれどな。かなり変な曲(笑)だけれど、やはりプロコフィエフでおもしろい。


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第九番 op.103 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。1956/12/6 Live. えっ、プロコフィエフに九番なんてあったの? 初めて聴くが、きれいな曲。しかし、プロコフィエフ独特の晦渋さと抒情性の入り混じった複雑さはなく、単純で退屈と言わざるを得ない。衰えたという感じである。リヒテルの演奏でなければ聴き通せなかったかも知れない。いや、人によってはきれいでいい曲というかも知れないけれど。ところどころで何とか以前のように爆発しようとするのだが、ことごとく不発。三曲の「戦争ソナタ」の傑作群のあとに、こんな衰えが待っているとは。むずかしいものであるな。


武満徹の「ア・ウェイ・ア・ローン II」で、指揮は沼尻竜典武満徹はもちろん大作曲家であるが、矛盾的対立による弁証法的展開というものは薬にしたくともない人だったな。まあむしろそれがいいところなのだろうし、武満本人もきっと意識してやっていたにちがいないが。

長い昼寝から起きて夕方までぼーっとしていた。

図書館から借りてきた、関川夏央『家族の昭和』読了。母から廻してもらった本。第一章は向田邦子と吉野源三郎、第二章は幸田文、第三章はテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」「男女7人夏物語」その他を題材にして、家族というものから見た「昭和」を検証するという試みである。いかにも実力者・関川夏央にふさわしい。まず言っておくと、自分は向田邦子も吉野源三郎も読んでおらず、「金妻」も「男女7人」も見ていないので、特に感銘を受けたのは第二章だった。というか、涙を禁じ得なかった。幸田露伴幸田文も、自分には限りなくなつかしい人たちである。しかし、これについては書かない。既に幸田露伴の精神も幸田文の精神も、いまの日本においてほぼ完全に消滅したからである。第一章についても、また同じ理由で書かない。
 そして、第三章は自分は読むに耐えず、いわゆる「速読」で済ませた。何も関川夏央が悪いのでも何でもなく、自分は「金妻」のいわゆる「不倫」の世界に(いまのところ)興味がないし、「男女7人夏物語」の「トレンディな」恋愛模様の世界にも興味がないからである。しかし思えば、本書で詳しく言及される「男女7人夏物語」の放映は昭和六一年(1986年)で、当時自分は高校生であったが、はっきりと覚えているけれど、同級生たちの多くがこのテレビドラマを見ていて、その感想が学校で熱心に語られていたのである。そして、それに自分がまったく興味をもてなかった(変人である)のも、またありありと覚えているのだ。世はまさしくバブル景気の頃で、まさしくこの「男女7人」の体現する雰囲気が自分の「青春時代」の時代精神であった。自分が大学生のときは、クリスマス・イヴのシーサイドホテル(?)のスイートに一年前から予約をせねばならぬというような感じだった。誰も彼も大学生ごときがブランド品をもち、スキーへ行き、男も女も結構なことに年中さかりがついてまぐわっていた。いや、とにかくそのように見せかけねばならなかったのである。本書ははからずもそのことを思い出させてくれた。余計なことをしてくれたものである。そして敢ていえば、自分はその時代精神における敗者であった。だからどうというわけでもなく、ただひたすら無知で愚かだった我が旧友たちの現在を思う。エリートの彼らこそが、いまの時代を廻しているわけであるが、それに自分はほとんど関係がない。彼らが日本をどうするのかにも、あまり興味はない。まあ、将来のことはおおよそわかっており、たぶんそのとおりになるのであろうと思っている。むしろ、そうならなければ驚く。いずれにせよ、もはや彼ら彼女らを変えることはできないのだ。

家族の昭和

家族の昭和

本書では取り上げられていないが、関連して思い出すのは1991年のテレビドラマ「東京ラブストーリー」である。これは僕が大学生のときであり、まさしく猖獗を極めた。これは誰もが見ていたし、特に女性には圧倒的に支持されていたと思う。僕と仲のよかった女性もはっきりとこういう恋愛を望んでいた。いまさらそれに関して何を言おうとも思わない。それから、我々の世代には村上春樹(敢て挙げれば『ノルウェイの森』)もかかる文脈で読まれていたことを注意しておきたい。

こともなし

雨。

午前中はどうでもいいことをしていておしまい。
うとうとしたりしていて気がつくと夕方。雨あがる。


ブラームスのピアノ協奏曲第二番 op.83 で、ピアノはエマニュエル・アックス、指揮はベルナルト・ハイティンク、ヨーロッパ室内管弦楽団。これはすばらしい演奏。アックスはもちろん著名なピアニストであるが、自分はこれまでほとんど聴いたことがなかった。この演奏はほぼ申し分ない。指揮が自分の好きなハイティンクだとは演奏を聴き出してから気づいた。こちらもすばらしい。現代でも日々名演が生まれるなあ。なお、第三楽章冒頭のチェロのソロはことさら印象的だった。思わず胸がいっぱいになってしまった。動画は、正直言って演奏終了後のステージをもう少し見ていたかったですね。


ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」op.35 で、ピアノはエフゲニー・キーシン。こういう演奏をするからキーシンはいまひとつ好きになれない。これはリストじゃないんですよ。底が浅く限りなく退屈な演奏。何を考えて弾いているのか。


ベートーヴェンのバガテル op.33 で、ピアノは アルトゥール・シュナーベル

ソフトバンクホークス日本一おめでとう。このシリーズはずっとベイスターズを応援していて、すごくスリリングだった。僕は「優雅で感傷的な日本野球」が大好きなのだなと再認識した。ベイは細かいミスで最終的に負けたけれど、ひさしぶりに野球を見ていてハラハラドキドキした。あとはもう終わり切っているつまらない中日ドラゴンズの試合を見て、もう一度熱くなれることを願っている。


 

けものフレンズ第5話を観る。

家族で長滝白山神社へ

休日(文化の日)。晴。


ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン、指揮はサイモン・ラトルベルリン・フィル。ツィマーマンは真摯な優れた演奏なのだが、こういう演奏を退屈と思ってしまう自分は何なのだろう。忸怩たるものがある。ラトル+BPO はたんに一流の演奏というに過ぎない。

よい天気なので、家族で奥美濃の長滝白山神社へ行ってきました。
九時半頃に家を出て、各務原IC から東海北陸自動車道を北上。一時間ほどで白鳥IC で降りるつもりだったが、カーナビの情報で渋滞していることがわかったので、ひとつ手前のぎふ大和IC から一般道に。のんびりとした県道を走っていたら、景色のいいところにちょうど駐車できるようになっていたので車を停めてみる。じつによい天気の上に、紅葉が見頃。すっかり爽快な気分になる。長良川もきれい。とんびが頭上を旋回している。

国道156号を北上、まず「道の駅 白鳥」に入る。拡張工事中の小さな道の駅だが、車がひっきりなしに入ってくる。売っている農産物が安くておもしろく、色いろ買ってしまう。すぐとなりには「白山文化博物館」というのがあって、何故か今日は入館が無料。入ってみてよくあるような映像を見たあと、この地方の文化財の展示室はなかなかよかった。個人的には鎌倉時代の写実的な沙弥木座像(なぜかただの県重文)や、伝えられてきた能面がおもしろかった。
 そこから歩いて長滝白山神社へ。じつにのどかな田舎だ。まずはちょうどやってきた長良川鉄道の汽車を撮ったり、初めて見るよく知らない鳥(これがなかなか逃げないのだ)を撮ったり。鳥はうまく撮れませんでしたけれど。神社はとても立派なもので、今年で白山開山1300年ということだが、それでもとても往時のにぎわいはない。いうまでもないことだが、中部地方を語るのに白山信仰を欠かすわけにはいかないというものである。先ほどの博物館を見てもわかったが、白山信仰はまったくの神仏習合であり、神仏習合は日本独自の重要な文化形態のひとつであったものを、明治の廃仏毀釈が破壊してしまった。まったく愚かなことをしたものであるが、まあいまはそれを語る場所ではない。とにかくそういうことで長滝白山神社には仏像もあったのだが、もちろんいまは神社に祀るわけにはいかないので、それ専用の宝物殿がある。
 神社内は観光客はちらほらというところ。道の駅に来る人も、ほとんどはここには寄らないようである。地元の七五三の儀式をやっていた。本殿は明治の建築ということで、さほど古いものではない。あと、境内に立派なイチョウがある。宝物殿には釈迦三尊像、四天王など。ただし、保存のために照明が暗くしてあって、かなりみづらかった。




道の駅に戻って、おなかもすいたし、この先の「阿弥陀ヶ滝」へ行くか迷う。せっかくだからいこうということで、でもいまはまだ道の駅には何にもないので、ソフトクリームを食って腹の足しに。ベンチすらないので、そのあたりに勝手に腰掛けて食う。まったくのんびりしていて、日本は平和であった。
 「阿弥陀ヶ滝」は国道156号から県道314号に入り、くねくねとした細い道を 2km ほど行ってようやく着いた。しかし車を置く場所からさらに奥であり、老母の体調がまだ完全でないので迷う。なんとかいけそうということで、ゆっくりと 15分ほど歩いていったら、ありましたよ、すごいのが。予想以上の迫力で思わず声が出る。まあ、写真では全然わかんないのですが。落差 60mということで、東海地方一であるらしい。昔はここで修行したらしく、長滝白山神社の「長滝」というのは、たぶんこれのことだったのである。これは来てよかったねということになった。


さて帰ろうということで、美濃大和の「道の駅 古今伝授の里やまと」へ。ここがまた大変な混雑で、皆んなどこへ行くって、道の駅へ行くんじゃないだろうかという混雑。駐車スペースをやっとのことで見つけて、中で食事をする。僕は鶏ちゃん担々まぜうどんとかなんとかを食ったが、なかなかうまかった。で、別の店で地元の肉のホットドッグも食った。地元農産物のコーナーは多くが売り切れ。とかなんとかで結構楽しんで、帰路に。帰りは高速道路がずっと下り坂なので皆んな飛ばすのだよなあ。ああ、ひさしぶりに家族で遠出できて、楽しかったです。またそのうち行けるといいな。

芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行 7』 / 『原典訳 原始仏教(上)』

晴。いい天気だ。

大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー320円。Linux 本を読む。

このところツイッターをよく見ているのだけれど、ツイッターってほんとに下らない。勝手に 140 字でもっともらしいことばかり言ってろって感じがする。まったく自分は時代遅れですね。ツイートを見ていて「いいな」と思うのは三中先生とか、nos さんとか、まつもとさんくらい。あとは、ためになるツイートとかネタとかいまの旬の話題とか、じつに下らない。まったくおりこうばかりでキモいわ。←バカ。品性下劣。

まだ Tumblr でエロい画像でも見ている方がマシ。というか Tumblr 好き。ブログがいちばん好き。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行 7』読了。

ヨコハマ買い出し紀行 7 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 7 (アフタヌーンKC)

 
細野晴臣を聴く。
はらいそ

はらいそ

 

 

 
『原典訳 原始仏教(上)』読了。中村元編。凡夫一生修行。まだまだ未熟である。本生経(ジャータカ)で提婆達多の無恩無報が散々語られるが、ちょっと異様である。ここでは提婆達多は誰がどうしてもブッダに対して悪意をもたないことがなく、常に悲惨な最後を遂げて決して救われることがない。そういう話が延々と続く。提婆達多は、ブッダがどれほど慈悲を注いでも悪意を以てしか受け取らない。仏典がかかる話を強調するというのは、つまり仏教では決して救われない人間が必ず存在するということを暗に示している。それは確かに正しいが、果たして仏典がそんなことでいいのだろうかという気がどうもしてならない。もちろん、自分の理解が浅いのであろうが。

日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』

晴。


ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ


メシアンの「五つのルシャン」(1948)。


武満徹の「秋」(1973)。

日高敏隆先生を読み出した。まだほんの入り口のところだが、ちょっとしたことを記しておきたい。日高先生によると、人間と動物のちがいのひとつは、死を知っているか知らないかにあるという。そしてこう書かれる。

たとえば母猫が死んで動かなくなったとき、仲のよかった娘猫がそばに寄る。見た目は変わらないから、娘猫はいっしょうけんめい母猫に向かって鳴いたりして、非常に不思議そうな顔をしている。しかし母猫が死んだことはわかっていない。

確かにそうなのであろう。ところで、ウチもしばらく猫を飼っていた。というか、野良猫が住み着いて、ウチの猫として外で飼っていたのである。まだ小さなメス猫だったが、しばらくしてオスの子猫を産んだ。そしてその子猫も、ウチで(外で)母猫と一緒に飼うことになった。仲のよい猫の親子だったと思う。しかし、何年か経って、子猫は癌を発病した。顔面に腫瘍ができて、ひどい顔になった。結局看病しつつ我々は最後まで看取ったのである。そのときのことだが、最後のお別れにと思って、我々は子猫の姿を母猫に見せたのだった。そのときのことだ、死んだ子猫を見て、母猫は威嚇するように、「フーッ!」と怒ったのである。あれは何だったのかと、我々はあとから何度も話題にした。いまでもそれが何だったのかわからない。日高先生の仰るように、母猫は子猫の死がわからなかったのだろうか。とすれば、なぜ怒ったのだろう。いまだに自分には不思議なことに思われる。

日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』読了。

世界を、こんなふうに見てごらん (集英社文庫)

世界を、こんなふうに見てごらん (集英社文庫)