関川夏央『家族の昭和』

日曜日。晴。起きて寒いくらい。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番 op.13「悲愴」で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。スタジオ録音? ピアノはまだヤマハでないように思えるが。


スクリャービンの三つのエチュード op.65 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。もっと聴きたいのですけれど、短すぎますな。


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第五番で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。もしかしたらこの曲は初めて聴くかも知れない。プロコフィエフのピアノ・ソナタは六、七、八(いわゆる「戦争ソナタ」)はよく聴くのだけれどな。かなり変な曲(笑)だけれど、やはりプロコフィエフでおもしろい。


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第九番 op.103 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。1956/12/6 Live. えっ、プロコフィエフに九番なんてあったの? 初めて聴くが、きれいな曲。しかし、プロコフィエフ独特の晦渋さと抒情性の入り混じった複雑さはなく、単純で退屈と言わざるを得ない。衰えたという感じである。リヒテルの演奏でなければ聴き通せなかったかも知れない。いや、人によってはきれいでいい曲というかも知れないけれど。ところどころで何とか以前のように爆発しようとするのだが、ことごとく不発。三曲の「戦争ソナタ」の傑作群のあとに、こんな衰えが待っているとは。むずかしいものであるな。


武満徹の「ア・ウェイ・ア・ローン II」で、指揮は沼尻竜典武満徹はもちろん大作曲家であるが、矛盾的対立による弁証法的展開というものは薬にしたくともない人だったな。まあむしろそれがいいところなのだろうし、武満本人もきっと意識してやっていたにちがいないが。

長い昼寝から起きて夕方までぼーっとしていた。

図書館から借りてきた、関川夏央『家族の昭和』読了。母から廻してもらった本。第一章は向田邦子と吉野源三郎、第二章は幸田文、第三章はテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」「男女7人夏物語」その他を題材にして、家族というものから見た「昭和」を検証するという試みである。いかにも実力者・関川夏央にふさわしい。まず言っておくと、自分は向田邦子も吉野源三郎も読んでおらず、「金妻」も「男女7人」も見ていないので、特に感銘を受けたのは第二章だった。というか、涙を禁じ得なかった。幸田露伴幸田文も、自分には限りなくなつかしい人たちである。しかし、これについては書かない。既に幸田露伴の精神も幸田文の精神も、いまの日本においてほぼ完全に消滅したからである。第一章についても、また同じ理由で書かない。
 そして、第三章は自分は読むに耐えず、いわゆる「速読」で済ませた。何も関川夏央が悪いのでも何でもなく、自分は「金妻」のいわゆる「不倫」の世界に(いまのところ)興味がないし、「男女7人夏物語」の「トレンディな」恋愛模様の世界にも興味がないからである。しかし思えば、本書で詳しく言及される「男女7人夏物語」の放映は昭和六一年(1986年)で、当時自分は高校生であったが、はっきりと覚えているけれど、同級生たちの多くがこのテレビドラマを見ていて、その感想が学校で熱心に語られていたのである。そして、それに自分がまったく興味をもてなかった(変人である)のも、またありありと覚えているのだ。世はまさしくバブル景気の頃で、まさしくこの「男女7人」の体現する雰囲気が自分の「青春時代」の時代精神であった。自分が大学生のときは、クリスマス・イヴのシーサイドホテル(?)のスイートに一年前から予約をせねばならぬというような感じだった。誰も彼も大学生ごときがブランド品をもち、スキーへ行き、男も女も結構なことに年中さかりがついてまぐわっていた。いや、とにかくそのように見せかけねばならなかったのである。本書ははからずもそのことを思い出させてくれた。余計なことをしてくれたものである。そして敢ていえば、自分はその時代精神における敗者であった。だからどうというわけでもなく、ただひたすら無知で愚かだった我が旧友たちの現在を思う。エリートの彼らこそが、いまの時代を廻しているわけであるが、それに自分はほとんど関係がない。彼らが日本をどうするのかにも、あまり興味はない。まあ、将来のことはおおよそわかっており、たぶんそのとおりになるのであろうと思っている。むしろ、そうならなければ驚く。いずれにせよ、もはや彼ら彼女らを変えることはできないのだ。

家族の昭和

家族の昭和

本書では取り上げられていないが、関連して思い出すのは1991年のテレビドラマ「東京ラブストーリー」である。これは僕が大学生のときであり、まさしく猖獗を極めた。これは誰もが見ていたし、特に女性には圧倒的に支持されていたと思う。僕と仲のよかった女性もはっきりとこういう恋愛を望んでいた。いまさらそれに関して何を言おうとも思わない。それから、我々の世代には村上春樹(敢て挙げれば『ノルウェイの森』)もかかる文脈で読まれていたことを注意しておきたい。