ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』 / 大地あるいは「母性」の死

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ ト短調 BWV915、ト長調 BWV916、イギリス組曲第六番 BWV811 で、ピアノはジョアン・カルロスマルティンスNMLCD)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.12-1 で、ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、ピアノはピエール・バルビゼ(NML)。1958年の録音。中身の詰まった演奏とはこういうのをいうのだろうな。フェラス+バルビゼはよいデュオだ。ちなみに、バルビゼは青柳いづみこさんのお師匠さんである。

Beethoven: L'intégrale des 10 sonates pour violon et piano

Beethoven: L'intégrale des 10 sonates pour violon et piano

  • 発売日: 2020/08/07
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しかし、シュナイダーハン+ゼーマンもまだ聴き終えていないしなあ。こちらも聴かないと。


日本人には超越性が足りない。これは自分を省みても思うことで、やはり超越性=父性を導入していくことは必要なのであろう。日本社会の母性の強さを指摘した河合先生もそのように仰っている。その河合先生の仰る「母性」だが、それは西田幾多郎の「場所」が「包み込むこと」という説明をなされているような、そんな意味での一種の比喩なのか、やはり実際に母性そのもの、母の力というものが強いのでもあるか。超越性は世界の彼岸、あちら側を目指すものであるし、また切断でもあり、一神教の「神」が歴史的に果たしてきた役割である。一方、日本の「八百万の神々」は切断しない。これに切断の機能を接続すると、よくも悪くも日本社会は変質していかざるを得ない。現実に、少しづつそちらの方向に向かっていることはまちがいあるまい。

それでふと思い出したのだが、アニメなどにおけるオタク文化の「妹」(兄に対する)というのは、わたしには非常に不思議なものだな。あれは何を表しているのだろうか。とても父性でないのは明白だよね。柳田国男の「妹の力」というようなものでもない。

多神教一神教を包含するか。そのような試みは、いまだかつてなされたことがない。

スーパー。

昼から医療器具販売店へ。

好天。普段とちがうところへちょっと出かけてみたかったので、愛知県の扶桑町イオンモールまで車で。ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップへ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。たまたまかも知れないが、ミスドはガラガラに空いていた。図書館から借りてきた、ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』を読み終える。村上春樹による翻訳だ。以前本書の前半を読んで簡単に記したことは知ったかぶりだったので、ここでは特に何も書かない。なかなかおもしろい本でした。訳者あとがきも興味深かった。わたしはやはりポピュラー音楽については全然知らないなと思った。まあ、クラシック音楽だって、知っているとはいえないけれど。

 

本棚から河合先生の『母性社会日本の病理』の文庫本を抜いてきて再読し始めた。これ、前はいつ読んだものなのだろう。本書の元本は1976年の出版であり、河合先生の本としては初期のものであろう。ひとつの社会の成員の心というものはそう簡単に変わるものではないから、本書の議論はいまでもかなりがそのまま通用するし、また一方では確実な変化も感じる。例えば河合先生は「自己実現」というものを、これまでの日本にはあまりない考え方として、かなり肯定的に提出しているが、いまではその「自己実現」に苦しむ若い人たちが少なからず居るというように。まさしく河合先生の仰ってきたとおり、人の心に関しては様々なことにおいて二面性があり、その一方が「これならば確実によい」というような便利なものはまずないのだ。

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

合理性というのは「父性」と強く関係があるといってよいと思うが、いまは世界的に「父性」の覇権化が進んでおり、母性の強い日本でもそれを無視できないようになっている。これは世界の徹底的な人工化、「大地の死」とも関係していることは確実だ。そして、本書にあるとおり、「大地」は母性、「グレートマザー」なのである。

しかし、考えてみると、人工空間は安全で快適な母体の「子宮」を思わせるところもあるな。グレートマザーとしての母性は非常に暗くて深い、呑み込まれるような危険をもっているが、人工子宮としての空間にはそのような危険はない。母性もまた人工化するということか。あるいは、世界から切断された母性。いずれにせよ、大地の死は同じことである。

デジタル空間。サイバースペース