『シェーンベルク音楽論選』

曇。
高校の時につるんでいた連中とまったく架空の場所(日本ではあるらしい)を旅行(?)する夢。彼らはいまでもあの頃のままだった。

このところ完全に煮詰まっていたみたいだ。もう少ししたら多少ラクになるのではないか。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第六番 op.10-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十四番 Hob.XVI:40、第十九番 Hob.XVI:47bis、第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー407円。足立巻一さんの『日が暮れてから道は始まる』を読む。遺稿集。淡々とした文章だが深い思いが込められていて、おのずと目をしょぼしょぼさせながら読んだ。わたしのような人生経験の薄い者にも、著者の心情はわかる。題名の「日が暮れてから道は始まる」というのは、著者四十九歳のとき、仕事で竹の内街道を歩いていてふと心中に浮かんできた言葉だそうである。わたしはしばしば「日暮れて道遠し」と思うようになったが、「日が暮れてから道は始まる」というのは、確かにそうありたいものだ。著者は七十歳を超えて、ますますそう思うのだと。
 著者は女子大学の先生をしておられたようだが、まことに感動的なエピソードが本書で幾つも紹介されている。著者を師と仰いだ学生たちは幸いなるかな。そしてわたしは、自分がよい教師でなかったことをつくづくと思う。どちらかというと、わたしは教師をやるべき人間ではなかったかも知れない。子供たちの態度を見ていれば、自然と納得されることである。
 神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』という本は読んでみたいものだと思った。「散華抄」という題で連載されていたものだそうだ。
 現在だって、地の塩たる人々はもちろん存在すると思う。しかしそういう人はいまやひっそりと隠れていて、そういう人の声を聞き取る人も減ったのかなと本書を読んでいてなんとなく思った。

シェーンベルク音楽論選』読了。シェーンベルクはもののよくわかった人なので単純化してはいけないが、やはり最高の音楽は専門的な音楽教育を受けていない人間には理解できないという考えの持ち主だったように思われる。いや、はっきりとそうは言っていないと思うし、一般人にだって音楽はわかるというようなことも言っているが。まあそのあたりのことはシェーンベルクの意図に関して白黒をはっきりさせる必要もないだろう。わたしはといえば専門的な音楽教育を受けておらず、実際にそれで音楽を聴くに当たり、隔靴掻痒たる気持ちになることは正直ある。結局自分には音楽の本当のところはわからないのだと、残念な気持ちになることがあるのだ。まったく面倒な話である。もちろんそんなことは気にせず、好きに音楽を聴けばよいではないかといわれるかも知れないし、それはたぶんそれでよいと思うが、一方で自分にはエラソーなところもあって、アマゾンのレヴューなどを見ているとこいつはまったく聴けていなくてヒドいと思ったりもするから、話がややこしくなる。結局何が正しいのか、よくわからないというのが本音だ。ゲージュツはめんどうくさい。
 岡田暁生氏の文庫解説(これはよいものである)によると、シェーンベルクという人は非常に表現意欲の強い人だったということで、これは確かにシェーンベルクを聴いていて納得できる。まさに霊感(インスピレーション)に従って猛烈に作曲をするタイプの作曲家で、彼の十二音音楽というのがオートマチズムであると誤解されるのが大変に腹立たしかったらしい。トーマス・マンの『ファウスト博士』の主人公アドリアン・レーヴァーキューンは誰が読んでもシェーンベルクがモデルであるが、そこで描かれている作曲家像がシェーンベルクには不満で、本書所収の論文でもマンに入れ知恵をしたアドルノに憤懣やる方ない。アドルノは作曲家としてはシェーンベルクの孫弟子にあたるが、アドルノの音楽を聴いているとその複雑さと退屈さにウンザリさせられるのであり、シェーンベルクの気持ちがわかる気がする。まあわたしごときにはわからぬアドルノなどはよいので、シェーンベルクの音楽は慣れればきちんとその美しさがわかるようなそれだ。でなければ、十二音技法があれほどの影響力をもった筈がないのである。敢ていうなら、シェーンベルクは最後のロマン派であり、最初のモダニストだったのだ。