プラトン『パイドン』

晴。
サッカーの夢を見るのだが、体育で苦手だったからかな。ついでにめずらしく学生のときの下宿が夢に出てきた。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第二十二番 K.305 で、ヴァイオリンはグナール・レツボール、チェンバロはエーリヒ・トラクスラー(NMLCD)。なかなかよい。■ベートーヴェンの幻想曲ト短調 op.77 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。たぶん初めて聴く曲。完全に無視されているが、まったく聴くべきところのない曲だとは思えないのだが。そりゃ出来はあまりよくないかも知れないけれども。■シベリウス交響曲第四番 op.63 で、指揮はコリン・デイヴィスボストン交響楽団NMLCD)。
 

暑い。アスファルトの上だからであろうが、車の外は 37℃でびっくりする。まだ五月ですよ。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。佐木隆三という人の『沖縄と私と娼婦』という本を読む。ちくま文庫です。著者のことは何も知らないが、題名と文庫惹句に惹かれて買ったもの。相当に濃い本で人生というものと関係がないわたしにはムリな本かとも思われたが、読んでいくうちに同じ人間の書いたものであるから、やはり全然わからないことはないと思った。たぶん、いまの若い人たちの多くも本書からは遠いであろう。わたしなどは体制内のおぼっちゃん(的おっさん)であるが、著者はなかなかに太い人である。50年ほど前の、沖縄の娼婦たちを描いた、まあルポルタージュというのか、しかしそれにしてはクールな客観性とやらを気にしない、己をさらけ出した本だ。まだ半分も読んではいないが、そういうことが具体的に書かれているわけではないけれど、著者は実際にその娼婦たちを買ってもいるようである。であるからというのか、自分は沖縄のことがわかるなどと思ったことはないけれど、自分がホントに沖縄の表面的なことしか知っていないのがよくわかった。まあ、著者(既に故人である)だってわたしの郷里(というかいまわたしが住んでいるところ)のことは知るまいが、沖縄は「基地」があるゆえにどうしてもわたしの郷里とは同じにならない。本書でも、米兵の「沖縄人」に対する犯罪は日常茶飯事である。その事実よりは、その雰囲気の方が却って重要な気もする。恒常的に土地の女の子たちが外国人にレイプされているという日常…。その中でふつうの人たちが暮らしていくという異常…。とても、安易にわかるなどとはいえない。

沖縄と私と娼婦 (ちくま文庫)

沖縄と私と娼婦 (ちくま文庫)

著者は沖縄の人に「東京の人か」と問われてまあそうだと答えるのであるが、生まれは北朝鮮である。しかしいわゆる「在日」の人ではなく日本人で、それは戦争のときに朝鮮半島が日本であったがゆえにそうなのである。育ったのは九州においてだったようだ。

プラトンパイドン』読了。副題「魂について」。古典新訳文庫版。岩波文庫版をかつて読んでから、どれくらいの年月が経ったものか。それにしても、ソクラテスは自分が死ぬ間際だというのに、極めてしち面倒な、難解な議論を延々としているものだ。わたしはソクラテスの議論(といってもプラトンが書いたものであるが)はすべて、仏教でいう対機説法、つまり対話する相手の性格や能力に合わせて語られたものだと思っており、それはここでも同じだと考えている。まあ、ソクラテスの問答はいつも(わたしにはだが)むずかしくて、正直言って頭がこんがらがってしまうのであり、本書でもそれは同じだ。これは半分冗談みたいなものであるが、たぶんソクラテスは自分の死を前にして知人たちがしめっぽくなり、うじうじぐじゅぐじゅ言うのを避けてやろうと、こんな無味乾燥ともいえる面倒な議論をしているにちがいないとわたしは思う。ま、笑うべき幼稚な読みですね。
 本書では死が問題になっているが(刑死の前なのだから当り前である)、さて、本書では「魂」というものが存在するということが登場人物の誰からも疑問の余地なく信じられており、訳者は現代の若い人たちに本書を読ませると、心身二元論的な、非科学的な形而上学と反発されたりするという。まさにさもありなん、訳者だってじつのところはたぶん似たようなものではないか(わたしは訳者解説をほとんど読んでいないので、じつはどうか知らない)。そのことはまったく驚くべきではないが、わたしは迷信ぶかい人間であり、「科学教徒」ではないので、ふつうに心身二元論を信じている。なんというアナクロニズム! また、粘菌の存在形態から、死と生の連続性も明らかだと信じている。しかし、死んでどうなるのか、それはわたしごときにはまったくわからない。たぶん、死後しばらくは「魂」はそのまま存在しているような気がするが、それは全然確信などではない。本書では死後「魂」はちりぢりになってしまうのではないかという議論があって、ソクラテスはそれをきれいに論破するが、頭の悪いわたしにはじつはよくわからない。似たような疑問状態に留まっている。ましてや、ソクラテスのいうとおり、冥府に「魂」が安らうかとなると、何とも雲をつかむようである。ま、わたしの脳みその中身は古代の無知な老爺と変わりないですね。かしこい人たちは、存分に非難なされたらよろしいのである。

おっぱいどん。