最相葉月『セラピスト』

晴。
蒸し暑い。昨晩はこの夏初めて冷房をつけて寝た。
 

老父の丸ごと一個のスイカ
 
昼食はお赤飯に、スイカ。お赤飯はひさしぶりでうまかったし、スイカは充分甘かった。
 
あるブログで、『林達夫ドラマトゥルギー』という新刊が出たことを知る。著者は鷲巣力という人、(わたしは)名前を見かけたことはあるという程度。いまのところ、近くの図書館には入っていない。
 林達夫というのはわたしにはきわめて大きな名前で、かつての中公文庫の四冊は繰り返し読んだし、いまもすぐに手に取れるところに置いてある。その名前は、たぶん開高健のエッセイで初めて知ったのだと思う。どうでもいいが、このブログのハンドルネームである「オベリスク」というのも、林達夫の若い頃のペンネームを頂いたものだ。中井久夫さんの若い頃のペンネームのひとつが、「楡林達夫」であることは、最近知った。
 ただ近頃つくづく思うのは、わたしに林達夫さんの「生き方」は、心底のところであまり参考にならないということだ。林達夫さんは、日本を代表する、大知識人のひとりである。わたしはといえば、平凡な地方の中でもさらに平凡な田舎に住む、無名で孤独な大衆のひとりにすぎない。「生き方」としての、ロールモデルに、まったくならないのである。わたしは、無名のまま静かに消えてゆくということを前提としながら、生き方を考える必要がある。
 
 
岐阜市中心部の老舗肉屋へ、牛ランプステーキ肉を買いに行く。
岐阜高島屋が今月いっぱいで閉店する。閉店セールのためか、特約駐車場の蕪城パークに入るための車がずっと並んでいた。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フロマージュ・ド オリジナル+ブレンドコーヒー528円。アプリコットの風味がなかなかいい。
 図書館から借りてきた、最相葉月『セラピスト』(2014)読了。本書の二大「主人公」は河合隼雄先生と、中井久夫さんであるが、河合先生は2007年に既に亡くなられているので、直接の取材はもちろんなされていない。が、2022年に亡くなられた中井久夫さんは、本書執筆時に御存命で、最相さんが直接取材できている。それどころか、中井先生による絵画療法、風景構成法を受けられているし、なんと、逆に中井先生をクライエントとして、最相さんが風景構成法を試みられたりと、驚くべきことが書かれている。ダブル主人公であるからして、ふたりともまだ一般には無名であったときの河合先生と中井さんの出会いの様子は、わたしをひどく感動させてしまった。中井先生は、自分の編み出した「風景構成法」が河合先生の「箱庭療法」にヒントを得たことを、隠さない。
 かつて、統合失調症は治らない病だと見做されていた。そこに中井先生が、統合失調症のいわゆる「臨界期」を「発見」したのである。統合失調症にも心の発展がある、それは治り得る病なのだ、と。わたしは本書以上のことは知らないが、ひとつのブレイクスルーだったのかも知れない。
 そして、本書の最後の三分の一ほどは、わたしにはかなりの衝撃だった。詳しくは書かないが、現在では、河合先生や中井久夫さんのような意味での、じっくりと「患者に寄り添った」流儀のセラピーはほぼ不可能になっている、と。それは DSM の覇権のせいもあるし、患者の多さに対してセラピストが少なすぎるせいであったり(いわゆる「3分診療」)、また病の形態もかつてとちがってきているせいでもある。もはや、「箱庭療法」もゆるやかに解体されつつあり、現場で採用されなくなってきているそうだ。言葉やイメージという、つまりは「物語」によるのではなく、基本的に薬物のみによる治療がメインになっている、と。セラピストも大きく変わった。セラピストの実存をかけた治療ではなく、患者にいかなる薬を処方するか、というのみの治療。
 患者の変化。古い医師には「内面がない」ように見える患者が増えているようだ、と。言葉や箱庭、絵画による治療がむずかしく、ただ心がなんとなく「モヤモヤ」している。突然泣き出したり、いきなりリストカットしたり。読んでいて、わたしにはそれは、譬えるなら、「表象」だけの心的世界に見える。敢ていうなら、であるが、心の「深層」がない――これは、確かにわたしにも、ネットなどを見ていると思い当たるところがある。どういうことか、はっきりとはわからないけれど。わたしへの宿題だな。それは、ひきこもりや、発達障害の世界にまっすぐにつながっているようだ。(いっておくが、ひきこもりや発達障害の人に、心の「深層」がない、なんていいたいわけではないよ。問題を掘削するための拙い比喩にすぎない。)

たぶん、「患者」の変化は、我々から「他人への共感可能性」が失われつつあることと関係があると思う。人間において他人と(あるいは他の生き物と)「同じ場所を共有している」というのは本質的に重要であるが、それがだんだんと無意味になりつつあるということだ。
 我々は、ペットをインターネット越しで飼うことの無意味さをまだなんとか理解できると思う。しかし、他人とのコミュニケーションは、ZOOM やアバターで、つまり仮想空間上で充分だと思っていないだろうか。
 

 
夜。
夕食にランプステーキを食う。うまい。年に一二度かな、お金がないわけじゃないんだけれど。皆んな歳なので、胃もたれする脂っこいサーロインよりも、赤身のランプの方が好き。
 
寝ころがって iPad miniベートーヴェンの「セリオーソ」四重奏曲を聴く(アレグリSQ、NML)。
 フー・ツォン(1934-2020)のピアノで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番を聴く(NML)。これは「若きフー・ツォン」というアルバムに収められていて、60年代の録音だという。最近になって知ったピアニストで、日本でそれほど知られているとは思えないが、どれを聴いても明白な才能と魅力をもつ。晩年のフー・ツォンを、アルゲリッチが別府の音楽祭に呼んだりしていたらしい。SONYレーベルの音源は NML で残念ながら聴けないが、それでもフー・ツォンは NML にもそこそこ収められている。
 リヒテルの弾くシューベルト(ピアノ・ソナタ第十四番、NML)を聴く。1979年、東京でのライブ録音。
 ピリスの弾くシューベルト(三つのピアノ曲 D946、NML)を聴く。第二曲の中間部ほど悲しくもさみしい曲は少ない。