「Fate/stay night」(2005)を観る

日曜日。雨。
 
昼食に焼きそばを作る。キャベツがちょっと堅かった。
 
雨の中、珈琲工房ひぐち北一色店。店内はお客さんがいっぱいで、いつもの席に座れなかった。
 レヴィ=ストロース『遠近の回想』を読み始める。ディディエ・エリボンがインタビュアーとなって、レヴィ=ストロースの生涯について本人に訊く、自伝のようなもの。レヴィ=ストロースはわたしには慕わしい人だ。謙虚で礼儀正しく、不思議なくらい、自己評価が低い。わたしはつい吉本さんを思い出す。
 まあ、それはよいが、誰かが書いていたけれど、レヴィ=ストロースはエリート的秀才ではなかった。ずっと、周りの飛び抜けた秀才たちに、ひとつ劣った自己認識をもっていたのがわかる。わたしはレヴィ=ストロースの本というと、西洋の知識人のそれで最高度に頭を使うというか、むずかしく感じられるので、これまた不思議であるが、いや、でも、不思議でもないのかも知れないが。飛び抜けた秀才たちの、あいまいなジャーゴンに満ちた難解な本は、知的装飾を取り払ってしまえば、なーんだってのが少なくないわけで。わたしには、レヴィ=ストロースの本は、そういうものではない。ってまあ、特に優秀でもないわたしがいっても、あまり説得力がないけれどね。
 レヴィ=ストロースが我々に教えてくれるのは、古代人、あるいは未開人でもいいが、彼らの知的能力は、現代の我々のそれと比較して、何ら劣るものでない、我々とまったく同等の能力をもっている、ということだ。そして、世界に対する彼らの態度は、我々のそれと比較して、むしろ「自然」であり、より健全であるのかも知れないということである。すぐにわかるとおり、これは一種のルソー主義といってよく、決してめずらしい思想ではないが、ただルソーその他の直感を、膨大な民族学的資料と独自の思索によって、知的に証明したものともいえよう。それはレヴィ=ストロースが、この現代社会のアカデミズムの中で生きながら、よい意味で一種の「素朴な未開人」であり得たことと関係しているのである。
 「天才」ロマーン・ヤコブソンとの出会いは感動的である。ヤコブソンがアメリカでレヴィ=ストロースと出会って、これでようやく一晩中でも飲みあかせる友人ができたぞ、と思ったが、レヴィ=ストロースはじつは一滴も飲めなかったというのが、ちょっとおかしい。それから、レヴィ=ストロースラカンがうまくいっていたというのも、おもしろい。
 
外へ出たら雨が止んでいた。曇。
 
 
最相葉月『セラピスト』の続きを読む。なるほど、「カウンセラー」というのは、河合隼雄以前に、ロジャーズの知的輸入があって、大きな役割を果たしたのだな。ただ、それにはサイコロジカルな基盤がなかった。河合隼雄が日本へ導入し、独自の発展をもたらした「箱庭療法」は、カウンセリング的な「言葉による対話」がなくてもクライエントが治癒しうるという、一段階「深い」(ともいえる)成果をもたらしたことになる。なにより、「箱庭療法」は、スライドなどによって、その効果が一目瞭然だった。ほとんど素人にすら、そこに何かが心の中で動いていることが、わかるという。
 しかし、へんな話(?)、「箱庭療法」は、誰がやっても、同じ成果が出るわけではない。ただそこにいるだけでも、カウンセラーの心的能力というか、「個性」というか、力量というかが、はっきり出てくる。だから、カウンセラーは自分自身をよく知ることが必要不可欠であり、ゆえにカウンセラーになるには、「教育分析」が絶対に必要になる。一人前になるには、二十五年かかるともいうが、それは自分を理解するための時間なのかも知れない。ほんとうに心というのは不思議であり、また人間関係というのも不思議である。
 本書には著者の最相さんが、実際に中井久夫先生に「絵画療法」や「風景構成法」を受ける記事があるが、これが非常に興味深い。カウンセラーがひと言ふた言以外、何もいわずにそこにいるだけで、そのカウンセラーの精神的力量が「絵を引き出してくる」のがよくわかる。これが例えば中井先生でなくわたしだったら、最相さんは何も描けなかったか、無意味なものを描いていたことだろう。不思議なことであるが、これがオカルト的ないんちきにしか思えない人は、まだまだ心の認識が浅いというしかない。
 

 
夜。
Fate/stay night』(2005)第24話(最終話)まで観る。そっかー、悲恋かー、ビターエンドとは。でも、おもしろくて二日間で一気に観てしまったな。さすがに有名作、期待を裏切らない神アニメだった。堅物のセイバーの恋が悲しい。さて、遠坂凛ルートも観るかな。