心の流動性 / いまの多くの精神科医は「心の病」を治療しない

晴。
昨晩は灯りを点けたまま眠ってしまった。
寝る前に聴いていたシューベルトを反芻しながら、ぼーっとする。
 
スーパー。大豆肉(大豆から作った「肉」)を売っていた。いまだなあ。キッチンタイマーが死んだので、100円で購入。予備のボタン電池をカゴに入れたのだが、セルフレジでの精算のとき、小さくて薄いのでカゴに入れたまま忘れてきてしまった。
 
長時間、昼寝。
お八つに老父のスイカ。甘くてうまかった。
 
 
ある精神科医の方が、ブログで『「向精神薬で自意識や虚無感の悩みが治る?」&「近代に根ざした自意識や虚無感は時代遅れでは?」』というエントリを書いておられたが。
 わたしは思うが、西欧的近代は心を「記号化」していった。つまり、心を記号によって徹底して記述していったのである。小説がまさにそれだし、精神分析もまたそれだ。
 それが当たり前になると、心には「記号」で記述しきれない、微細で流動的なものがあり、じつはそれこそが心の「自由な」あり方なのだということが、わからなくなっていく。現在は、それが極端に進んだ状態だとわたしには思える。わたしなら、それを「心の貧困化」と呼ぶ。記号と、モヤモヤした、気分的なもの。それのみが心の姿だと思われるようになっている。記号を超えた、心の流動性が、ない。
 人生もまた、「記号化」した。これは、資本主義の現代的展開によるとわたしには思える。そこから、我々は「現在」を失う。生の実感を失うといってもいい。我々の人生は、既成品の貧しい物語に還元されてしまう。人生に物語は必要だが、人生は物語以上のものだということがわからなくなる。わたしはこれを、「人生の貧困化」と呼ぶ。
 
わかってしまったな。いまの多くの精神科医、あるいはセラピストは、「セラピスト」といい条、「心の病」を治療しない。薬で、向精神薬で、対症療法はおこなう。薬によって、症状は緩和される。しかし、それではじつは「心の病」は治らない。治療を、どこかへ丸投げしている。
 クライエントの方にも原因があるかも知れない。いまの「心の貧しさ」というのは、そもそも精神療法を超えているのかも知れない。「気分」が向精神薬で変わればよいのかも。わからないが。
 

 
夜。
蒸し暑い。冷房を入れた部屋とそうでない部屋の落差が大きい。日中は猛暑日だったという。湿度も暑さの感覚に大いに作用する。