「色即是空」と「空即是色」

未明に目覚める。外はまだ真っ暗。ベッドから起き上がり、しばらくそのままでいたのち、机に向かって PC を立ち上げる。他人のブログを見たり、自分のブログを見返したりしながら、何をするでもなくぼーっとする。自分のやっていることはどうやら無意味のようで、モチベーションの維持がむずかしいねって思う。でも、中沢さんの『レンマ学』を読んでいて勇気づけられたじゃないか、とも思う。見えていない者に理解されないのは当然だ、とにかくやっていることは無意味でも、それでも自分に前を向かせる気持ちを出させる回路を、作らねばならない。
 ようやく空が明るくなってくる。晴。(7:02)
 
 
般若心経にある「色即是空、空即是色」というのを知っている人はたくさんいると思う。一見、たんなる対句のようにも思えてしまうが、歴史的に「色即是空」と「空即是色」の思想は別々に発展してきた、というのがおもしろい。どちらかというと、「色即是空」、現象は自性をもたない、の方がわかりやすい気がする。玄侑さんが書いておられたが、上座部仏教の長老と対談した際、「色即是空」は真理だが、「空即是色」なんてことが書いてある経典はない、といわれて、びっくりしたそうである。「色即是空」は、ナーガールジュナ(龍樹)が極限まで発展させた。現象界の虚妄を主張するという、仏教の通俗的な哲学的イメージとして流通しているのも、こちらである。
 「空即是色」を発展させたのは、のちに唯識とよばれる思想を作り上げた人たちである。ここでの「空」はすべての原基となる隠伏的、潜在的な空間で、エネルギーに満ちており、そこからあらゆる現象(「色」)を生み出してくる(どうしても、エネルギーの湧き立つ量子場の真空を連想してしまう)。だから、どちらかといえば「有」にちかい「無」ということになり、人によっては大乗仏教の中で異端視するが、これがないと現象界を否定することになりかねない。ここはむずかしいところで、実際に大乗仏教の中で、中観派唯識派は激しい論争を繰り返した。
 それらを統一したのが、中央アジアで活動した、華厳経を作り上げた人たちである。華厳における有名な「すべては関連している」という思想は、「空即是色」における潜在的な「空(くう)の空間」において展開されているものらしい。だから、我々は現象界を見るだけでは、あらゆるものの隠伏的な関連は理解できない。
 なお、ナーガールジュナは唯識にも深い理解を示していたそうである。実際に、華厳経への注釈書を書いて、その肯定の思想に賛嘆を惜しまなかったらしい。大乗仏教の思想は、決して否定だけではないのである。
 
 
曇。寒いな。
玄侑さんの『華厳という見方』を少し読んでから、中沢さんの『レンマ学』を読む。第六章まで読み返した、以前よりずっとわかる。
 メモ。「理法界」と「事々無碍法界」が、純粋なレンマ的無意識の領域だ。言語は「事法界」と「理事無碍法界」に関わっており、言語のたんなる記号的側面につながる「事法界」の領域だけでなく、特に現生人類を俟って全面的な「理事無碍法界」の現実化(のひとつ)である「ホモ・サピエンスの言語」が可能になった。それはロゴス的知性の働きの全面的記述を可能にするもので、抽象作用と捨象によって「理法界」に踏み込み、「喩」として部分的にレンマ的知性の領域までを含んでいる。
 玄侑さんの『華厳という見方』は、『レンマ学』への助走としてとても役に立つ。『レンマ学』を読むにはわたしの集中力と知的能力をフル稼働させねばならないので、なかなかに入っていくのがしんどいから。
 
(なお、こういう探求を現実に関係のない、ヒマ人の高踏的な遊びと見る人もいるだろう。しかし、それはまったく逆なのである。わたしの問題意識は、どうしてふつうの人間たる我々は日々こんなに空虚なのか、生きていて「リアルを感じられない」のか、という一点に関わっている。あくまでも、ふつうの人間が、だ。現実の前に掛かっていて、薄い雲かベールのようにモヤモヤと我々と現実を隔てるもの、それは有り体にいってしまえば「空疎な言葉」だ。いまはふつうの人間がかしこくなりすぎ、誰もがそのような「空疎な言葉」を毎日もてあそんで已まない。それを根底から解体するのは、このようにめんどうな作業になることもあるのだ。だから、わかっている人にはめんどうなことをいわず、例えば「無」の一字で済ませたっていいのである。さらには、それすら、なくたっていい。)
(あるいはこうもいえるか。大乗仏教的探究は、まさに我々凡人の、凡庸な日常にこそ関係があるのだ、と。)
 

庭のセンリョウ(千両)。

マンリョウ(万両)。昔はマンリョウの方が多かったのだが、いまはセンリョウがたくさん生えている。鳥が実を食べて、種を落とすのである。
 
金柑を食う。亡き伯父は金柑が好きで、最後の来訪のとき、ウチの金柑の実をたくさんちぎって、袋に詰めていた姿をよく思い出す。あれからほどなくして、伯父は突然亡くなった。もしかしたら、持ち帰った金柑を、まだ食べ切ってはいなかったかも知れない。あれからもう、十年以上が経った。
 
お隣のモチの木で、メジロが鳴きっぱなし。
 

 
夜。
『レンマ学』第九章まで読む。第八章「ユング的無意識」から、とりわけむずかしくなるな。ユング心理学における「元型」が新しく(レンマ学的に)理解し直され、それが物理学的思考、特に量子論の発見に関連付けられる。その「証明」として、第九章では、レンマ学的な「数」(ニュメロイド)を華厳学的に構成したものと、行列力学においてハイゼンベルクが構成してみせた行列(マトリックス)が、まったく同型であることを示してみせる。これは、量子論がレンマ学的「元型」に根を持っているからだ、というのだ。これは、独創のかたまりである本書の探究の中でも、もっとも驚くべき成果のひとつではあるまいか。
 しかしまあ、今日はこれで力尽きた。つかれたー。
 
本書では「如来蔵」に時間性はなく、そこに時間性が入り込むとアーラヤ識(フロイト的無意識)が生み出されてくる、といわれているが、時間性がないというのは、「現在」しかない、過去も未来も「現在」にしかない、という理解でいいのだろうか。だから、線型的な時間性の下にある言語というものが、「如来蔵」を記述することはできないし、またアーラヤ識は「言語のように構造化されている」のである。ユング心理学的な「共時性シンクロニシティ)」は、そのような「現在」において生ずる。
 「現在」は、古典力学的な「運動」を起こさない。その意味で、古典力学はロゴス的知性の産物である。おもしろいのは、量子力学にも「運動」が存在しないことである。古典力学においては時間は特別な場所を占めていて、それゆえに運動が記述できる。しかし量子力学にあっては、時間はたんなるパラメータに過ぎず、理論において補助的な役割しか占めない。