こともなし

晴。
 
大昔のことだが、学生のとき、頑張りすぎたなとつくづく思う。いまだに消化し切れていない。突出したものは矯めなくてはならない。
 
凡庸を恐れてはならない。冴えたものを求めるのは、はからいであり、執着である。もっとも、はからいを忌避するのもはからいであるが。
 
正義ということを求めるなら、功利主義的な発想を否定することはむずかしい。最大多数の最大幸福。もちろんそれからはみ出る人間もいるだろうが、それは個別に対応していけばいい、となる。いや、功利主義だけではない、人間をマス(集塊)として捉えることは、社会科学において不可避である。しかし、我々個人はマスとして生きているのではない。社会科学的な知は、(当たり前だが)万能ではない。けれども、である、我々個人が生きるのに、いかに社会科学的発想が強く、個人の考えを拘束する時代であることか。我々は自分をマスとして見做し、比較することが、当たり前のようになっている。人文知の敗北。我々個々人における人文知のレヴェルが、ひどく低くなっている。最終的に人文知は、言葉を超えなければならないのだが。言葉で何をいっているかだけではなく、「文体」の決定的な重要性。
 

 
昼から県営プール。受付に「機械の不具合により、室温・水温が低くなっております」とあり、どんなもんだろうと思ったら、水温はさほどでもなく温かかった。でも、更衣室や廊下はちょっと寒かったですね。外気は13℃、それほど寒いというわけではないが。これまで、毎年いま頃は随分と寒かった記憶がある。
 
鶴見俊輔不定形の思想』(河出文庫)の続きを読む。ようやく半分くらいか、ぶ厚いな。やさしい言葉でむずかしいことをいう。でも、むずかしいにはちがいないんですけれども。
 
夜。
UNHCR に少額だが寄付する。
 
サマータイムレンダ」(2022)第2話まで観る。死に戻りタイムリープ+ミステリって感じ。なかなかおもしろそう。ただ、2クールは長いよなー。
 
アニメを観ている間に蚊に喰われた。えっ、まだ蚊いるのか。
 
 
鶴見俊輔不定形の思想』の続き。「日本の折衷主義」という題の新渡戸稲造論がなかなかおもしろかった。それとは分かりにくいように偽装されてはいるが、徹底的に西洋的な学問的概念を使って、新渡戸が分析されている。すごいのは、それらが完全に使いこなされていて、しかも生き生きと新渡戸の、そのあたたかい人格をしっかりと捉えている、ようにわたしには見える(わたしは新渡戸のことをほとんど知らない)ことだ。もちろんいまの学者なら西洋の抽象概念を鶴見に劣らずたやすく駆使するだろうが、結局はその概念たちに、多かれ少なかれ振り回されているものだ。どうして鶴見に、そういうことができたのか。個人的資質といってしまってよいものだろうか。
 
小林秀雄大杉栄辻潤とならべて折衷主義者として扱われているのは、自分には小林秀雄なんかその程度のもんだぞと、そういう表明だろうな。まあフェアな観点ではないと思うが、本格的に勉強した西洋哲学者としては、本当にそう見えたのであろう。
 別の文章で鶴見は西田幾多郎や禅についても似たようなことをやっていて、思想のもっとも低いところで(低)評価している。それも、西田の西洋哲学的側面はきちんと理解した上でのことである。たぶん鶴見は、禅など日本の非合理性の最たるものだと思っていたのではないか。相対主義も、問答無用の低評価である。まさにある種の西洋人を彷彿とさせる。