人文知の死 / 「冴えない彼女の育てかた♭」(2017)を観る

晴。
 
朝、真宗大谷派岐阜別院にて永代経法要あり、母方の祖母の五十回忌として老母と参加する。法要自体は正信偈をバーっと十分くらいであげてしまうだけで、いいかげんなものだった。そのあとに別のお坊さんによる法話があったので聴いてみたのだが、これはなかなかおもしろい体験だった。質問があったり、熱心な信者によっていちいちツッコミがあったりと、そういう中で話をまとめて法話していくってのは、大変だなと思った。法話のお坊さんはわたしより年下だろうな、郡上のお寺の人みたいで、こういうことができる人は限られているだろうから、ここまで通っておられるのだろうか。熱心な信者のおばあさんはいかにも場馴れしている感じで、勉強もよくしておられ、自分の信仰に戦闘的な自信をもっているようだった。なかなか、こういう人を相手にするのは、さっきも書いたけれど大変だよ。
 一時間くらい、休憩のところで失礼する。真宗大谷派は「南無阿弥陀仏」の名号を実際に唱えることが少ない、それがちょっと残念という話は、確かにそうだな。法事などでも、むにゃむにゃって唱えておしまいだ。六字名号を唱えることが、浄土真宗のアルファにしてオメガなのだが。今日の法話は、そういう意味でも気づきがあってよかった。
 
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。本日のコーヒーはパプアニューギニアの豆だそう。毎日ちがうのだが、いつも忘れちゃうんだよねえ。
山口昌男演劇論集『宇宙の孤児』(1990)を読み始める。最初、山口昌男の世界に入っていくのがむずかしかったのだが、慣れてくるとめっちゃおもしろいし、山口昌男、やっぱりすごいよね。しかし、これだけ入っていくのがむずかしいというのは、山口昌男の知的感受性の根ざしていた、民衆のふざけた根源的生命力の水脈が、もう随分と枯れてしまったのを思い知らされる。なんか、世界中がマジメになっちゃったというか(人のことはいえない)。わたしなんかはいまアニメに生命力を養ってもらっているところがあるが、これはあんまり山口昌男的ではない、こんなアニメとか、キラキラした「推し」の世界に、民衆的生命力がシフトしてしまったのだな。山口がしきりと本書でも強調している「道化」ってのが、殺害されてしまった、もはや山口昌男的「道化」が生きのびることはむずかしい。これは、むずかしいことをいえば、我々がガッチリとした「管理」に身を委ねてしまったところにあると思うのだ。民衆レヴェルで、「笑い」から「感動」へシフトしていってしまったのだと思う。ほんと、人のことはいえない。

山口昌男はふざけまくってマジメな知識人を挑発し、混ぜっ返して秩序をカオスに変えていったのだが、すべてが強力に秩序化させられ、カオスたる根源的生命力が弱っていったら、山口昌男も枯渇していった、そういうことだったのかなと思う。いまはカオスというとフェイクニュースとかポスト・トゥルースになり(それはカオスというよりは、秩序と同じ精神の場にあると思える)、民衆的な機知とは関係なくなってしまった感じだ。知識人はエビデンスベースの論理ばかりやたら重要視するという、反山口昌男的世界が啓蒙されつつある。そして山口昌男は忘れられた、ということになるのではないか。
 
それから、山口昌男は人文学の方からの人類学者だと思うが、現在において人文知の弱ってしまったこと。いまや、社会学や経済学など、システムを強化する学問ばかりが流行っている。人文知も、それに追従しようとしている面があるかも知れない。人文知の死。
 
 
夜。
冴えない彼女の育てかた♭」第11話(最終話)まで観る。第8話が神回だったけど、そのあとはちょっと微妙かも。加藤恵が最終話のクライマックスで、手を伸ばしかけて引っ込めたのは、まあ加藤らしいのかな。これじゃあ視聴者生殺しって感じで、劇場版を観るしかないよね…。しかしこればかりは、何故か U-NEXT にないのだった。ええ、第11話、買い物のシーンも坂道のシーンも、萌え死ぬかと思いましたとも、そうですとも。Cパートのお互いに一度だけ下の名前呼びになっているところ、ウッってなりましたとも。キモいおっさんを殺すな。