フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』

晴。
早起きしたのだけれどずっとうだうだしていた。本も読んでいないな。ゆっくり回復中。

何もしたくないのでアルゴリズム本を眺めていて、そのうち「赤黒木」を Ruby で実装してみようかなと思う。「二分探索木」は Ruby で実装してみて、勉強になったので。赤黒木は二分探索木を改良したものだと見做すことができて、Wikipedia によると広く実用されているらしい。Linux カーネルのスケジューリングなどでも使われているそうである。ただ、二分探索木でも初心者には結構むずかしいのに、赤黒木はさらに実装が大変だ。でも、ぐぐってみたら Ruby での実装例も見つけたので、それを参考にしたりすればできるのではないか。学校の情報処理の授業で C言語で実装させられたという話も見て、なるほど基本的なアルゴリズムなのだなと思う。

アルゴリズムイントロダクション 第3版 第1巻: 基礎・ソート・データ構造・数学 (世界標準MIT教科書)

アルゴリズムイントロダクション 第3版 第1巻: 基礎・ソート・データ構造・数学 (世界標準MIT教科書)

アルゴリズムを自分なりに実装しておくのはなかなか大事で、ダイクストラ法などは Aizu Online Judge をやるときとか自分の実装をコピペして手を入れたものを重宝する。「深さ優先探索」や「幅優先探索」は超基本で、これが自由に使えないではどうしようもない。逆に、こういう基本的なアルゴリズムが書けるようになると、素人でもなかなか楽しいです。


昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。『鬼子の歌』の続き。大木正夫、信時潔、戸田邦雄の章を読む。本書もあと少しになったな。信時潔って誰かと思ったら、「海ゆかば」の作曲家か。僕は「海ゆかば」って典型的な軍国音楽ということ以外、よく知らないのだな。片山さんはさすがに「戦争協力者」ということで直ちに否定したりはしない。大木正夫もそうらしいしね。しかし、自分に教養というか、知識がなさすぎて困る。射程の大きな文体と圧倒的な知識で、どうも読むのは大変。疲れてあんまり笑っているわけにもいかない。これについていける人がどれくらいいるのだろう。

帰り、カルコスに寄る。ちくま学芸文庫の新刊はもうとっくに出ている筈だが、一冊もない。誰かが買ったのか、ちょっと遅れているのか、それとももう入らなくなってしまったのか。講談社学術文庫の新刊は既に入らなくなっている。岩波文庫の新刊もないので、これも入らなくなったのか。夕方のせいか、お客さんが少ししかいないし。このところ、いつもそうだな。いろんな新刊を見ていると、もう硬い本はふつうの本屋ではダメなんだなとつくづく思う。カルコスは頑張ってはいる、というかこれまで何とか頑張っていたのだけれど。まあ仕方がないのかも知れない。

ニーチェの新訳を読む。自分はこれまでニーチェは我々日本人には無意味だと思っていたけれど、今回読んでみていまさらアクチュアリティが出ていることに気づいて驚いた。これも、我々日本人の徹底した「西洋化」による。いや、そう言っていいのか。「和魂洋才」という言葉があるが、明治の開国以降これまで、我々は多かれ少なかれ誰もがこの「和魂洋才」でやっていたというのが実情だと思う。しかしその「和魂」の部分は、時代が経つに次第に消滅していき、ある程度のところで閾値を超えたとわたしは思っている。それをもたらしたのが、これも漸次的な「西洋化」だ。わたしは思うが、いまツイッターなどで活躍している(わたしより若い)知識人たちには、ニーチェの言説が(すべてではないが)驚くほど当て嵌まるところがあるのだ。
 ただ、ならば我々のナニは、「洋魂」になったのか。そうだとばかりもいえない。結局、我々の「合理主義」には「神」が欠けているからだ。論証にはその根拠として「第一原因」が必要であるが、西洋はそれを長らく「神」でやってきたし、いまはその代わりにナニカを「神」とすり替えている。そこは面倒な話だから、ここで簡単に書くことはできない。とにかく我々も論証主義でいくと、何らかの第一原因が必要になる。いまのところそれはまだ若い知識人たちの中でモヤモヤしていて、とりあえず「科学的合理主義」というところでいわば「ゴマカシテ」いるが、次第にそれでは済まなくなるだろう。そのあとに、いったい何が来るのか。正直言って、自分はそれはあまり考えたくはないところである。おそらく、わたしのような時代遅れの人間は、静かに消えていくのがいちばんよいのかも知れない。まあ、自分の中だけで納得していればよい気がする。

フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』読了。村井則夫訳。しかしニーチェか。自分がそうだからよくわかるが、ニーチェはいわば「引きこもり」であり、人生経験に乏しく、本ばかり読んで奇怪な観念で頭をいっぱいにしていた「中二病」者であったのは否めない。また「快活」や「健康」を至上の価値としていながら、「精神の崩壊」以前も始終精神の病的な状態に苦しみ続けた「弱者」であった。その意味で、彼が罵倒するカントなどはじつはまさに快活な社交家であり、(世俗的なものも含めた)世の中の様々な事象に通じていた、「真の哲学者」にふさわしい人間だったといってよいだろう。わたしなどがいうのも何であるが、ニーチェには幼稚くさい、バカバカしいところがありすぎるのである。けれども、それだけならやはり、ニーチェは後世に残ることはなかった。ニーチェの「病的なまでの繊細さ」には、驚くべき掘削力があることも確かである。もっともわたしには、それが「病」のせいなのか、それとも「病」にもかかわらずなのかは、ちょっとわかりかねるが。まあ、自分にニーチェのすべてが見極められるとか、そんなことはわたしはまったく思っていないけれどね。なお、本書の訳者解説は、ニーチェが読んだら罵倒するか、皮肉をかますか、そんな「学者」らしい穏健なものである。わたしは、訳者のそれがいけないことだとはちっとも思わないが。それがニーチェなのだ。

偶像の黄昏 (河出文庫)

偶像の黄昏 (河出文庫)

ちなみに、日本ではニーチェは大哲学者として疑問をもたれることなくこれまで受容されてきたが、おそらく西洋ではまったくの異端であると見做されている筈である。少なくとも、誰もが尊敬をもって語る哲学者などではないことは、わたしはじつのところは知らないけれども、そうであると予想している。ま、西洋でも真剣にニーチェを読み解いている者などは、そう多くはいないのではないか。