柄谷行人『力と交換様式』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの二声のインヴェンション BWV772-786 で、ピアノはアルド・チッコリーニNML)。

 
超薄。球形の潜在性だけでは創造は叶わない。豊かな可能性の塊にすぎないのだ。平面的な超薄で次元を落とし、可能性を抑えていくこと。そうして初めて、具体的な形に落とし込むことができる。
 
昼から県営プール。いい天気(外気18℃くらい)。けれども廊下を水着で歩いていると肌寒い季節にはなってきた。
 
 
柄谷行人『力と交換様式』読了。柄谷行人は現実を見ておらない。昔からの延長線上にいるだけで、現実を無視したいわば観念遊戯に耽り、それを「抽象力」と称して正当化している。それゆえ、本書は具体的な肌理の細かい記述がきわめて少なく、論旨の流れにあてはめるために、テクストの解釈も恣意性が目立つ(過剰に「深読み」したり)。そもそも、交換様式D というのが、あいかわらず何が何だかよくわからないし、まさにそういう「名指すことのできないもの」と説明(?)されているから、批判もできない。ただ、「交換様式A(互酬)を高次元で回復したもの」と、余計わからなく言い換えられているだけだ。いってみれば、柄谷行人の思想的自慰行為にすぎない。
 ――なんて disってしまっていいのかね。本書から何を救うか。本書には繰り返し、「霊的なもの=力」という語が出てくる。これに関して、具体的な説明はほとんど、いやまったく、ない。わけがわからないといってもいいのだろうが、本書の柄谷的「新味」は、この「霊的なもの=力」の導入だろう。これをどう捉えるか、個人的におもしろい。考えるに値すると思う。
 なお、柄谷の人類学的素養は随分と前の段階で止まってしまっており、例えばレヴィ=ストロースの理解も昔の柄谷と何ら変わるところがない。つまり、レヴィ=ストロースはたんなる理知的な構造主義者としてのみ理解されており、「野生の思考」「冷たい社会」を徹底的に擁護した、いわば現代における「滅ぶべき新石器人」であったという認識がまったくない。

しかし、本書は「力わざ」であるといっていい。こんな「力わざ」に、何の意味もないということが、あるだろうか? 皆さんはもっとポジティブに読んで欲しいと思う。
 
夜。
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早寝。中沢さんを読んで寝る。