ハルノ宵子『猫だましい』

晴。
昧爽起床。しばらく心を調えたのち、家族旅行の分のブログ記事を書く。
 
【『ゲンロン13』関連記事】悪と公共性をアジアから考える(2)|梶谷懐+東浩紀 - webゲンロン|考えるを育てる
東さんと梶谷先生の対談記事を読む。興味深い内容だったが、ひどく自分に引き付けて卑小に読んでしまった。こういうのを読んでいると、そもそも自分の圧倒的な能力不足も感じるのではあるが、それよりもわたしには決定的に「複数性」が欠けているなという強い感じを受ける。何というか、ただ田舎でそれもほとんど引きこもって、ネットだけで世間と接しているだけのわたしであるから、多少書物など読もうが(大して読んでもいないが)、結局は「他者」が欠けているといってもいい。
 しかし思うが、ふつうの一般人(?)に、わたしよりはマシにしても、どれだけ「他者」が存在するものであろうか? 「自分」と「自分の好き嫌い」以外のものが、どれだけ存在しているのか? そして、ネット上の「一般人」。わたしは最近、自分も含めたネット上の「一般人」に心からうんざりすることが多い。自分もこんなブログを書いているが、ブログはツイッターなどの SNS やヤフコメあたりよりはマシにせよ、また例外はあるにせよ、ブログというものにも(自分のブログも含め)時々うんざりする。わたしはほんと「修行」として、「未熟者修行日記」としてこのブログを書いているだけである。ほとんど誰も読まないし、意味があるのかもわからない、たぶんほとんどないであろう。我々は何故ネットで自己など「発信」するのか? 自己、自己、自己。わたしは、ネットで「自分」というものを意識させられるのに、嫌気が差さないではいられない。ほんとうに未熟である。
 けれども、わたしのような平凡な「世界の狭い」人間はこれからもっと増えていくだろう。これからのち「世界」は自然から離れ、ますます記号化、ネット化していく。そこに構成される自分をどうしていくかというのは、ひとつ挑戦しがいのある課題であるとは思う。
 
「好き嫌い」っていうものをもっと考えないとな。「好き嫌い」が欲望の絡み合いが構成する「自分」に過ぎないのなら、そんなものが何だっていうことは当然あり得ると思う。差別的な言い方をするなら、それは所詮「女子供」の慰みに過ぎないと、否定的にいうこともできるだろう。
 

 
スーパー。うろこ雲とか樹々の色づきとか、段々秋だなあって感じ。
 
昼寝。まだ旅行の疲れが残っているかな、よく寝てしまった。
 
 
図書館から借りてきた、ハルノ宵子『猫だましい』読了。前に書いたとおり、とってもおもしろかった! 感想に変更はないので、よろしければそちらをどうぞ。著者の(明るい!)深刻な病気の話も「おもしろかった」し、猫の病気の話はむしろ感動的だった。ハルノさんは猫と心を通じ合わせることができるのだな。そして、乱暴なことをいうように見えて、人間としてじつにまともだ。現在の医療はマニュアルとコンプライアンスに縛られていると書いておられるが、それがいまの医療を「非人間的」にしているのかも知れないと思う。だって、医療というのは、人体という「自然」とどうしても触れていくしかない行為だからな。自然は、マニュアル化すると本来性を失ってしまうのである。
 老や病、そして死。さて、それらから誰も逃れることができない中で、わたしは人間らしく生きていくことが、できるのか知らん。ってそういうのがいかにも素朴に、ナイーブに聞こえるなら、あなたは大切なことがわかっていないのかも知れないよ、エラソーですけど。お勧め本です。

ハルノさん、ただぼーっとするのがお好きなのだな。深く共感する。そして、「生まれてただそこに存在することの気高さ、美しさ」(p.259)ということをベタに書いておられるけれど、生きていることは基本的に苦痛である中で、ハルノさんがそうおっしゃることも、マジマジの真実なのである。
 
早寝。