リース・グレーニング『隻手の音なき声』 / 坪内祐三『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』

曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第七番 op.92 で、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNML)。2016年のライブ録音。ジャケット写真を見ると「85th Birthday」とあって、2016年といえば既に小澤の体はボロボロの筈であるが、音楽は全盛期と何も変わらずに凄まじい。まさに鋼のように剛直かつしなやかなベートーヴェンで、感動というも愚かだ。しかし、終楽章では、それからさらに一段ギアが上がるのである! ちょっと、わたしはわけがわからなくなってしまった。こちらの方向で、自分がここまで連れて行かれたことはほとんどないと思う。さすがは小澤征爾、わたしの指揮者という他ない。

 
■バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、ピアノはエレオノール・ビンドマン(NML)。
Partitas

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■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはエレオノール・ビンドマン(NML)。

昼から県図書館。「新潮」誌の中沢さんの連載「精神の考古学」を読もうと思ったら、まだ前号のままで更新されていなかった。別にそれでもかまわないので、一度読んだものを読み返す。

ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。ベイク チーズホイップ+ブレンドコーヒー473円。いま借りてきたばかりの、リース・グレーニング『隻手の音なき声 ドイツ人女性の参禅記』を読み始める。玄侑さんが褒めておられたので借りてみたが、これはおもしろい。真摯な記録で、我々にも大いに参考になる(これは上から目線でいっているのではない)。本書に、キリスト教徒である自分が禅に入るのは、仏教徒がそうするのと比べものにならずむずかしいだろうと著者がいうと、日本人の(京都大学の)N教授が、いや、キリスト教徒よりも仏教徒の方がむずかしいだろうという(p.97-98)のにはなるほどと思った。つまり、いずれにせよ、禅は禅すら捨てなくてならない。そのためには、最初から余計なもののないキリスト教徒の方が、却ってラクかも知れないということである。禅は確かにあるのだが、またこれも確かにない。本書にも、禅に入る「門」はない、「無門」であるという話がある。「門」がないのに、一方では通過せねばならない、さてどうする、というわけだ。

わたしもまだひどく未熟なのだ。それはまちがいない。
 
帰りに肉屋。

図書館から借りてきた、リース・グレーニング『隻手の音なき声 ドイツ人女性の参禅記』読了。感銘を受けた。それにしても、この高度成長期以前の市井の日本人たちは、いったいどこへ行ってしまったのか。かつては確かに日本人にはこういうところがあったが、我々はその価値を知らずに投げ捨てた。
 また、本書にはある時期の「京都学派」の雰囲気が滲み出ているようだ。現在の文献では、もうそのような雰囲気は批判的に言及されるか、あるいは完全に無視されていると思う。


夜、雨。
図書館から借りてきた、坪内祐三『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』読了。死後出版。400ページある単行本だが、一気に読み終えた。さすがに疲れたな。