平田精耕『雪月花つれづれ』

曇。
朝からずっと遠雷。

昼から雨。雷。
食べ物にはカロリーがあるので、昼飯を食うと途端に体が熱くなってくる。というのは変かな。小腸で養分が吸収されるのには、食べてから多少時間がかかる筈だしな。どうなっているのだろう。


シューマンの交響曲第一番 何も知らずに BGM として寝転がって聴こうとしたら、冒頭から楽天的な響きでオッと思う。指揮はポール・パレーという人で、Wikipedia の記述を見てみるとなかなかおもしろかった。1958年、デトロイト交響楽団との録音。幸福な録音というべきか。
こんなブログ記事も見つけた。
ポール・パレーは凄い奴だ : 私たちは20世紀に生まれた
 
■上のシューマンの第一番がよかったので、第三番も NML で(今度は真剣に)聴いてみた(リンク)。いやー、よかったわー。パレーの個性は第一番の方に合っているようで、こちらの方はこの曲にしてはちょっとテンポが速い感じも受けたが、それほど気にはならなかった。パレーはイン・テンポの指揮者なのかな。で、リズムがいい。低音がザクザクしていて、推進していく感じが気持ちよい。NML ではパレーは結構たくさん聴けて、フランスものが多いのかな。オーケストラはもちろんデトロイト交響楽団、1956年の録音。

 

強い雷雨の中、珈琲工房ひぐち北一色店。客少なし。ちくま文庫の『E.M.フォースター短篇集』を読み始める。E.M.フォースターは初めて読むかなあ。(西洋)文明の偽善を、偽善的に描くという、何とも不愉快な短篇ばかりで、その不愉快さがおもしろいといえばおもしろいのか。著者は文明の偽善はわかっていて、それに自然を対置しようというのはこちらもわかるのだが、それが例えば「パニックの話」のユースタスだとなると、著者は何にもわかっていないとしか言い様がない。著者は近代自我の殻(それは言葉によるものだ)から、結局全然突き抜けていなくて、所詮自我の内部から臆病に空想(自然=狂気)しているだけだ。(ミシェル・フーコーは正しかった。)わたしは西洋近代自我全否定というわけでもないのだが、少なくともここにあるのはその最悪のあらわれのひとつだろう。芸術的にも、それほど高いものとは思えないが、まあ翻訳によるのでわたしには何ともいえない。
 まあしかし、(いまの)日本人でもわたしがここでいっていることが理解できるかは、ちょっと疑問だという気もする。

 
何となく不愉快なので、TSUTAYA でアニメ映画でも借りてこようと思ったのだが(SAO プログレッシブ「星なき夜のアリア」)、ちょうど借りられていました。

『本とみかんと子育てと』の続き。おもしれー。

糖度は必要だがきちんと酸味がなければ美味いみかんとは言えんというワシら生産者の味覚は、多数の消費者の味覚とはかけ離れてしまっている。昔から言う、都会の人ほどウマいものを知らんということなんだろうけど、どうしたものか。消費者教育という問題も、先々考えていかねばならない。(p.118)

いや、わかる。トマトにせよキュウリにせよ、スーパーで売っているものは味も何にもしなくて食えたものではないが、ウチで老父が作っているようなウマい野菜が、青くさく感じられて好かない人間はいまやたくさんいる。わたしは金柑なんかも丸ごと齧っていてそれだけでへたなスイーツとかよりも遥かにおいしいのだが(中からジュっと飛び出てくる汁が鮮烈なのだ)、いまの多くの人はとても食えまい。亡くなった伯父は、ウチの金柑が大好きだったので、食っていると伯父のことをよく思い出す。
 著者が無農薬野菜信仰を罵って、無農薬とかいうヤツほど野菜の中から虫が出てきたりすると文句をいうと書いていて笑ったが、ほんと無農薬ってそういうことよ。虫が入っていなかったところで、葉っぱは喰われていて穴だらけだ。そういうのは、いくら美味くても売れない。まあ、ウチも家庭で消費するから無農薬なんだけれど、虫が出てくると確かに老母はギャッといって老父を罵る笑。

夜。
平田精耕『雪月花つれづれ』読了。