こともなし

晴。朝から33℃。暑い。
 
スーパー。
 
生きることに意味など求めるのは、原初的立場からしたら記号による(自然からの)ひとつの疎外であろう。結局、(他の動物や昆虫、植物のように)「非意味」に生きるか、疎外であっても「有意味」に生きるか、どちらがよいのかは、ちょっとわからない感じがする。でも、そのように考えてしまうこと自体、人間のみの「有意味」な態度なわけであるが。つまるところ、人間は最初から疎外されている(原初的疎外)のはまちがいない。
 

 
昼から県図書館。車外は38℃。「新潮」誌7月号の中沢さんの連載「精神の考古学」を読む。遥か彼方のレヴェルだが、まったく何ひとつわからない、というわけではない。わたしごときでも参考になる記述がある。最後まで読んで、感銘を受ける。幸せな気分になる。
 中沢さんの幸福な記述(そこだけ世界の空気が異なるかのようであった)を読んだあとで、坂本龍一さんの癌闘病記(中沢さんの連載の直前に掲載されてあった)を読むか迷ったが、現実に戻るため(?)読むことにする。ほとんど絶望的だな。ここにも「中沢新一」の固有名を見つける。
 他に音楽雑誌もパラパラ繰ったが、ここに記するに値しない。
 
図書館隣のミスドに寄る。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー440円。いま借りてきたばかりの、小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』を読み始める。なかなかおもしろそうだし、あとがきに中沢さんからの「影響」を記してあったので、借りてきたのだが、読み始めてみると残念ながら全然ダメな本だった。著者は、自分の目で直接「世界という書物」を読む力がない。ただただ、活字だけで世界がわかると思っている人の本になっている。と思ったわけだが、もう少し覗いてみるつもり。第一印象が正しいとは限らないからな。
 
ガソリンスタンド。暑さでタンク中でガソリンが気化していたのか、蓋を開けたらプシュッっていった。
 

 
夜。
安原顯『へそまがり読書王』を拾い読みする。先日岐阜の古書店で買った本。きちんと冒頭から読み始めたのだが、ノーベル物理学賞を獲った中村修二氏の本をベタ褒めするなど、まともに読めないので拾い読みすることになった。(ちなみに中村氏は、どうしようもないクズだとわたしは思っている。中村氏の言い分と、悪者になった企業側の両方の主張をきちんと読んでみて欲しい。)悪口がすさまじく、そういう点ではとてもおもしろい。とにかくヤスケンは人間そのものが嫌いで、特に日本人をバカ、クズ呼ばわりして唾を吐きかけまくっている。2002年の出版で、当時でもほとんどあり得なかっただろうが、いまこんな本が出ることはない。じゃあ、日本人が大人しくなったのかというと、そんな筈がなくて、安原顯の10000分の1も教養のない連中が、ネットで暴れまくっている。
 安原顯は2003年に死去。癌の治療費を捻出するため*1村上春樹の自筆原稿を古本屋に叩き売ったりとか、めちゃくちゃな人間だったという印象だが、本当のところはどうだったのか、わたしなどにわかるわけがない。ヤスケンが編集していた書評誌『リテレール』を、わたしは学生のとき本屋でよく立ち読みしていた(買う金がなかったのである)。あれは思い出に残る雑誌だった。

*1:と思っていたが、検索してみるとそういう記事はなかった。わたしの記憶ちがいかも知れない。